マーロン・ブランドという革命
マーロン・ブランド(1924-2004)という俳優ほど、メンズ・ファッションの歴史に影響を与えた人はいないのではないでしょうか?それは、ファッションを愛する人々にとって、ココ・シャネルやクリスチャン・ディオールを知るくらいに重要であり、ファッションというものが、社会に与えうる(もしくは社会から与えられる)影響力を理解する重要な鍵になるのです。
マーロン・ブランドの実質的な映画デビュー作である本作『欲望という名の電車』は二つの偉大なる革命を起こしました。
- 「メソッド演技法」=自然な芝居を映画にはじめて持ち込んだ
- Tシャツ文化のはじまり=50年代の若者文化の台頭
映画及び演劇の世界において革命を起こし、メンズ・ファッションの世界においても革命を起こしたのが、この作品なのです。そして、もうひとつここに付け加えるならば、映画の中に「衣服の汚れと破れの美学」(ただ汚らしいわけではない)という臨場感を持ち込んだのもこの作品からなのでした。
この美学が、1970年代のブルース・リーと、1980年代のハルカマニアにつながることは言うまでもありません。
テネシー・ウィリアムズを夢中にさせた男
私はスタンリー・コワルスキーと正反対の人間だった。私は生まれつき感受性が豊かだったが、あいつは粗野だった。
マーロン・ブランド
23歳のとき、まだ無名の舞台俳優マーロン・ブランドは、エリア・カザン(1909-2003)から本作のスタンリー役を打診されます。しかし、自分自身が演じるには役柄のスケールが大きすぎると考えたブランドは全く興味が沸きませんでした。
当時のブランドは、慢性的な破産状態にあり(お金に頓着しない性格であり、お金に困っている友人にすぐ貸していた)、自由になるお金は1円も持っていませんでした。そんなブランドにカザンは、20ドル渡し、バスに乗ってとりあえず原作者のテネシー・ウィリアムズに会ってみてくれと提案しました。
しかし、ブランドは20ドルを受け取ると、友達と放蕩三昧して使い果たし、約束の日から2日遅れてヒッチハイクをしてテネシーの別荘があるプロビンスタウンに到着しました。その時ちょうど、その別荘の台所は浸水し、トイレは詰まり、停電していました。ブランドは、テネシーに対して、自己紹介の挨拶の前に、手際よくすべてを修理したのでした。
私は、スタンリーに、邪悪な中年男性ではなく、若さゆえの獣性や薄情になる男性像を求めていた。
テネシー・ウィリアムズ
とはいうものの、だらしなく約束の日に遅れ、恋人まで連れてきて、ヘラヘラしていたこの青年に、半ば呆れながらも、脚本を読ませてみた瞬間にテネシーは心を奪われたのでした。まさに彼が求めていたスタンリーがそこにいたのでした。早速、カザンに連絡し、「あんなに並外れて美しい男を私は見たことがない」とまで言い切らせたのでした。
こうして、ブランドはスタンリー・コワルスキー役に選ばれ、1947年12月3日に、『欲望という名の電車』は初演されたのでした。ブランチ役のジェシカ・タンディ(1909-1994)以外は、後に作られる映画版と同じキャストで合計855回上演されるロングラン公演となりました。
ルシンダ・バラードという女性
マーロン・ブランドによる「Tシャツ革命」は、1947年12月3日の時点で既にその種が撒かれていました。そして、この革命に対して重要な役割を果たしたのがルシンダ・バラード(1906-1993)でした。
彼女は、ブロードウェイの衣裳デザイナーであり、トニー賞を二度受賞しています(1947年と1962年)。一方で、映画のための衣裳デザインは、本作と『ジェニーの肖像』(1948)の2作品のみです。
そんな彼女が、スタンリーの衣裳について決めていたことは、あくせくと灼熱の大都会で働く電気ガス供給会社の肉体労働者のような格好をさせようということでした。そして、ブランドと共に衣裳を合わせるために、エヴァンズ・コスチューム会社を訪れ、〝デザインされていない服〟をブランドに着せることにしたのでした。
バラードは何枚かのTシャツを赤く染め、何度も何度も洗って縮ませ、さらに背中を縫いフィット感を出しました。そのうちの一枚は右側の肩を破って、ステラがかつてスタンリーをひっかいたであろうことを表現したのでした。
ジーンズは、切って細くさせ、第二の皮膚のようにブランドの身体つきにぴったりと合うようにしました。それは明らかに、通常のTシャツとジーンズではありませんでした。
更に獰猛さを出すために、ブランドは、ルシンダの注文に従いブロンドヘアを黒に染めました。そして、この衣裳を着たブランド自身も、「これこそ私がずっと着たかったスタイルなんだ!」と狂喜したのでした。
最後にリハーサル期間にエリア・カザンはブランドにウエイト・トレーニングを厳命しました。さらに、ボクシングを習わせ、ここに、アメリカの新たなセックス・シンボルの誕生が運命付けられたのでした。
彼女は、舞台の成功を受けて、映画版の衣裳デザインも担当することになり、アカデミー衣裳デザイン賞(白黒部門)にノミネートされました。
スタンリー・コワルスキー・ルック1
ボーリングジャンパーとTシャツ
- 緑と真紅のシルクのボーリングジャンパー
- 汗だらけのグレーのTシャツ
- ウールパンツ
- きちんとベルトを締める
激しく暴力的で、知性よりも感情に訴える芝居です。
マーロン・ブランドが父親に送った手紙より
Tシャツの歴史
19世紀のユニオンスーツというオールインワンのフランネル素材の下着から生まれたTシャツ(襟のついていないシャツ)の歴史。その原型は、1904年にクーパー・アンダーウェア・カンパニー(現在のジョッキー)から発売されたバチェラーアンダーシャツでした。
そして、1905年から1913年にかけて、アメリカ海軍のアンダーウェアとして正式に流通するようになり、暑い日なら、上官の裁量でTシャツのみで甲板に立つことが認められるようになりました(その後、陸軍においても採用)。
1920年に出版されたF・スコット・フィッツジェラルドのデビュー作「楽園のこちら側」で、Tシャツという単語がはじめて登場しました。
1930年代には、大学のアメリカンフットボール選手の間で、Tシャツが流行することになり、第二次世界大戦においては、兵士の下着として一般的に着用されるようになり、戦後帰国した兵士たちが、カジュアルウェアとして着用するようになりました。
そして、本作によりTシャツは下着からカジュアルウェアとして一般的に着用されることになり、1970年代以降、ロゴ等がプリントされたものが大流行することによって、ファッションアイテムの領域にまで到達することになるのでした(現在、あらゆるラグジュアリー・ブランドにとって粗利率の良い商売アイテムである)。
日本では1948年にはじめてTシャツが発売され、1970年代に一般的になりました。
作品データ
作品名:欲望という名の電車 A Streetcar Named Desire (1951)
監督:エリア・カザン
衣装:ルシンダ・バラード
出演者:ヴィヴィアン・リー/マーロン・ブランド/キム・ハンター/カール・マルデン