エルネスト・ボー シャネル初代調香師、N°5を作った男

調香師スーパースター列伝
調香師スーパースター列伝
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エルネスト・ボー

Ernest Beaux 1881年12月8日、ロシア・モスクワで生まれる。フランス系であり父親も調香師である。ロマノフ王朝御用達の香水製造業者であるアルフォン・ラレー社に石鹸研究室の助手として入社する。その後同社の研究所で、調香のトレーニングを受ける。

1912年に自身で調香した香水が「ブーケ・ド・ナポレオン」という名で発売され、空前のヒット作となる。さらに同年ロマノフ王朝誕生300年を記念して「ブーケ・ド・キャサリン」を発売する(その5年後、ロシア革命によりロマノフ王朝は滅亡する)。

1914年に第一次世界大戦の勃発に伴い、ボーはロシアを離れ、故国フランスに従軍し、北欧に駐屯する。この時に、アルデハイドの特性を生かした革新的な調香を思い立つ。やがてロシア革命によりラレー社は解体され、ボーは研究所で1919年から20年にかけてアルデハイドを中心にした試作品をいくつか作る。

1920年にガブリエル・シャネルを紹介され、シャネルの初めての香水の候補としてN°1からN°5、N°20からN°24の番号がふられた10本の試作品を提出する。シャネルはその中から、過剰にアルデハイドが使用されたN°5を選ぶ。

1921年にシャネルの最初の香水「シャネル N°5」が発売される。以後、1922年に「N°22」、1925年委「ガーデニア」など発表する。1929年からブルジョワの専属調香師も兼任し「ソワール ド パリ」などの香りを調香する。1954年にシャネルの専属調香師の座をアンリ・ロベールに継承する。そして1961年6月9日、パリのアパートメントで死す。

代表作

N°5 パルファム(1921)
N°22(1922)
キュイール ドゥ ルシー(1924)
ガーデニア(1925)
ボワ デ ジル(1926)
ソワール ド パリ(1928)

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ロマノフ王朝の皇帝の調香師だったエルネスト・ボー

エルネスト・ボー

調香師は常に自然を模倣しようしています。しかし、自然とは何なのでしょうか?神は、シャネルのN°5を生み出さなかった。しかし、エルネスト・ボーは生み出せた。

ソフィア・グロスマン

もし私たちの思考が単なる幻想に過ぎないとしても、そうした幻想は調香師の才能によって実現の可能性を見出す。いずれにせよこうした思考は、必然的に私たちが暮らす環境、読書、そして愛する芸術家たちに影響される。

私にとってそれはフランスの詩人や作家たち、そしてプーシキンの詩、ツルゲーネフやドストエフスキーの作品、ベートーヴェン、ドビュッシー、ボロディン、ムソルグスキーの音楽である。帝室劇場とそのバレエ団、モスクワ芸術座、フランス派の絵画、そしてセローフ、レヴィタン、レーピンといった偉大なロシアの巨匠たちの作品、そして何よりも、私が頻繁に訪れることを楽しんだ芸術の環境である。

エルネスト・ボー

エルネスト・ボーをご存知でしょうか?シャネルの「N°5」を生み出した人です。彼は約65年前に死んでいるのですが、実際はそうではありません。つまり彼の分身とも言える「N°5」が1921年誕生当時のまま地球上の沢山の街で購入することが出来るからです。

女性の肌の上で永遠に生き続ける人・エルネスト・ボーは、フランス人の調香師であるエドゥアール・ボー(1835-1899)の8人兄弟のひとりとして1881年にロシア・モスクワで生まれました。

1898年に父が主任調香師として勤務するロマノフ王朝御用達の香水製造業者であるアルフォン・ラレー社で石鹸工場の技師見習いとしてキャリアがスタートしました(18歳年上の父と同名の異母兄弟が事務員として働いていました)。ちなみにラレー社は1914年までに1600人の労働者を雇用する大企業に成長しました。

しかし1900年に兵役に就くために祖国フランスにもどり、二年間過ごし、1902年にアルフォン・ラレー社に再び戻り、香水の調香師として本格的なトレーニングを受けることになりました。

1907年に主任調香師に昇格し、最初の香りを調香しました。そしてロマノフ王朝の宮廷に納入する高級石鹸と香水の製造を監督しました。

この頃から調香の世界ではほんのわずかしかもちいられなかった合成香料である脂肪族アルデハイドを高い濃度でもちいる香りを実験的に作っていました。特に1912年に発売されたウビガンの「ケルク フルール」に影響を受けました(アルデヒドC-12 MNAを効果的に使用)。

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第一次世界大戦で、軍人としてレジオン・ドヌール勲章を受章する。

エルネスト・ボー

結婚した1912年に「ブーケ・ド・ナポレオン」というオーデコロンを創りました。この香りは、ナポレオンによる1812年のロシア遠征におけるボロジノの戦い(僅か1日の戦闘で約8万人の死傷者が出た)から100周年を記念して創られたものでした。

このフローラル系のコロンが、想像を超える爆発的な売れ行きを見せたこともあり『皇帝の調香師』としての地位を獲得しました。翌年、ロマノフ王朝誕生300年を記念して、女帝エカチェリーナ二世に捧げ、アルデハイドを駆使した「ブーケ・ド・キャサリン」が創りましたが、期待通りの反響を生み出せませんでした。

ボーは、第一次世界大戦がはじまるとすぐにフランス軍に従軍し、ドイツ軍と戦う歩兵として戦闘に参加したと言われています。そして1917年から19年にかけて、凍てつくツンドラに囲まれた、雪とコケの匂いに包まれたムルマンスクのコラ半島に駐留していました(一時、ウクライナのキーウで対ボルシェビキ戦に参加していました)。

真夜中の散歩を好み、透き通ったひんやりした空気と海藻の匂いも愛した彼にとって、1918年夏に、白夜の光に照らされた河川や湖沼から漂う清々しい香りに心を打たれました。その後、同年、アルハンゲリスクのムジュグ島に創られたボルシェビキ捕虜収容所=死の収容所に、ロシア語の堪能なボーは、英国軍の諜報部中尉として駐屯していました。

この二つの寒い国でのスパイ活動の中で感じた香りが、彼にとって生涯忘れられない匂いとなりました。その体験がのちに3種類のアルデハイドをカクテルし、シャネルの「N°5」を生み出すきっかけとなります。

1917年にロシア革命によりロマノフ王朝は滅亡するが、その時、ボーは従軍中で革命に巻き込まれず、妻イライド(1881–1961)も難を逃れ、子供と共にフィンランドのボーと無事合流しました。

1919年に除隊したボーは、フランスに向けて2ヶ月の危険な航海の末、家族と共にほぼ無一文でフランスに亡命した後、戦功が認められレジオン・ドヌール勲章を受章しました。ボーは大戦中にロシアとイギリスからも勲章を得ており、軍人としても相当優秀な人でした。

しかしこの航海中妻が浮気しており、1921年に離婚することになりました。そして翌年イヴォンヌ・ジロドン(1893-1980)と再婚しました。

一方、ラレー社はシリス社に買収され、ボーは、ラ・ボッカにあるその研究所で働くことになりました(アンリ・ロベールアンリ・アルメラスも後輩として共に働いていた)。そして翌年、運命の二人が出会うことになるのでした。

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ガブリエル・シャネルとの出会い。シャネル N°5の誕生。

ガブリエル・シャネル

私は裁縫師であって、調香師ではありません。もし私が香水を売るとしたら、それは女性が身につけられるようにするためです。ボトルではなく、香水そのものを売りたい。他にはない、唯一無二の香りであってほしいのです 。

だから人工的な香りを女性にまとわせたい。ドレスのように人工的な、つまり人の手で作られたという意味よ。薔薇もスズランもいらない。私がほしいのは合成された香りなの。

ガブリエル・シャネルがエルネスト・ボーに言った言葉

なぜこのような名前が付いたのでしょう?マドモアゼル・シャネルが、私にいくつかの香水を依頼しました。私は彼女に、1から5、そして20から24という2つのシリーズを贈呈しました。彼女はその中からいくつかを選び、その中に「No.5」と書かれたものもありました。

私が「どんな名前をつけましょうか?」と尋ねると、マドモアゼル・シャネルはこう答えました。「私のドレスコレクションは5月5日、つまり毎年5番目の月に発表されます。ですから、ラベルに書かれた番号を残しましょう。そして、この5という数字は幸運をもたらすのです」と。

エルネスト・ボー

1918年に第一次世界大戦が終結し、帰国を待つアメリカ兵たちは、祖国に残した恋人の為、パリ土産としてフランス製の香水を買い求めていました。そんな世界が豊かになりつつある中、ひとりのファッション・デザイナーが香水を作ろうと目論んでいました。

そのデザイナーの名をガブリエル・シャネル(1883-1971)と申します。彼女が、最初に作ろうとした香水の名は「オー シャネル」でした。

それは親友ミシア・セールのアイデアから着想を得たものであり、1919年に調香が開始されました。しかし、最愛の人ボーイ・カペルとの結婚の夢が破れ、12月22日にボーイが交通事故で急死したことにより、ガブリエルは香水開発を放棄し、ホテルリッツで、家をもたない隠遁生活を送るようになりました。

数ヶ月の月日が経ち、ミシアの励ましにより、再び香水に対する創作意欲を蘇らせたガブリエルは、新しい恋人であり、ロシアから亡命してきた大公ディミトリ・パヴロヴィッチ(1891–1941)が紹介してくれたロシア生まれのフランス人の調香師に、夏の終わりにボーが住むカンヌで会うことになりました。

当初、ボーは、ファッション・デザイナーのために香りを作るという未知の領域に対し不安を抱いていたのですが、彼女と話すうちに、ファッション・デザイナーとして史上三番目の存在になろうとしている彼女に協力したいと思いました。

とても情熱的でスタイリッシュなエルネスト・ボーと意気投合したガブリエルは、彼の協力の下、1920年に香水作りにふたたび取り掛かることになりました。そしてボーは、翌1921年に、その主要原料を非常に高価な大量のグラース産ジャスミンに置いた10種類のサンプルを完成させました。

ガブリエルの前に、試作品のガラスの小瓶が、1から5、20から24のラベルをつけて10本並べられました。それらを一通り試香したガブリエルは、わずか数分の試香で、迷いなく5番の小瓶を選んだのでした。

伝説によれば、ボーの不注意な助手が、その小瓶に、アルデハイドの10%希釈溶液を入れるところを間違って、純粋な原液を入れてしまったことから誕生したと伝えられています(この香りの奇跡は、アルデハイドをそれまで誰も思いつかなかった量で調合したところにあります)。

ちなみにこの作品は、ボー自身が、1913年にロマノフ王朝300周年記念の品として調香した「ブーケ・ド・カトリーヌ」のリネーム版として翌年に販売された「ラレ N°1」の流れを汲むものでした。

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1924年にシャネルの初代調香師に就任する。

エルネスト・ボー

エルネスト・ボー

1898年に、シャネルを買収することになるピエールとポール・ヴェルテメール兄弟の父エルネストが、ブルジョワ(1863年創業)の半分の株式を買収しました。そして、二人の息子が事業に関わることにより、1913年には、ブランドを代表するマカロン型チーク、ブラッシュ パステル ジュが発売され、大ヒットしました。

1917年以降はヴェルテメール兄弟が完全に経営権を把握し、本格的なアメリカ進出を果たし、ブルジョワは興隆期を迎えることになるのでした。

1921年にシャネルの「No.5」を生み出したエルネスト・ボーを、ヴェルテメール兄弟は、1924年4月4日にガブリエル・ココ・シャネルからシャネルの香水の権利を手にしたことにより、パルファン・シャネル社を設立し、専属調香師にしたのでした(シャネル共々)。

そして、1924年にブランドのファースト・フレグランス「モン パルファム」がエルネストにより調香されました。さらに1925年からアメリカ市場を視野に入れたフレグランスの開発を開始し、1928年に、ニューヨークで「イブニング イン パリ」という名の香りが発表されたのでした。

1929年にこの香りは、フランスに「ソワール ド パリ」の名で逆輸入され、世界中で発売されるようになりました。そして1936年には、日本語の〝小箱〟から命名した「コバコ」というオリエンタルスパイシーな香水も誕生させました。

一方で、ボーは、シャネルの初代調香師としても1922年に「N°22」、1927年に「キュイールドゥルシー」、1925年に「ガーデニア」、1926年に「ボワ デ ジル」といった名香を生み出すことになりました。

さらに1942年から46年にかけてガブリエル・シャネルの個人的な依頼により「マドモアゼル シャネル No.1」(1946年)という幻の香りも作らせていました。そして自身のブティックでのみ販売し、アメリカの百貨店にも流通しました(1947年にヴェルテメール兄弟と和解し販売を終了した)。

ムシャンのシャトー・デ・セドールに居を構えていたボーは、1954年にアンリ・ロベールに二代目を引き継ぎました。そして1961年6月9日、パリ16区のアパルトマンで死去しました。