シンディ・ローパー略歴
- 1953年6月22日 ニューヨーク市ブルックリンで生まれる。5歳の時、両親が離婚する。
- 1970年 高校を退学し、愛犬スパークルと家出し、様々な職業を経験する。
- 1978年 ブルー・エンジェルというグループを結成し、80年にアルバム・デビューするも売れず、解散。自己破産する。
- 1983年 一枚目のソロ・デビュー・アルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』を発表し、全米で600万枚、全世界で1600万枚を売り上げる。ファースト・シングル「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」が全米No.2ヒットになる。
シンディ・ローパーの最高傑作
パフォーマンス×ファッション×ヘアスタイルの奇跡的な融合
「涙のオールナイト・ドライヴ」 1989年4月リリース。全米6位、全英7位
男性歌手にはいつも可愛い子ちゃんたちが待っているのに、私にはいつも助けを求めている悲しいダサ男しかない、ということにはすでに気づいていた。
シンディ・ローパー自伝より「ソロ・デビュー前」
かつてシンディ・ローパー(1953-)ほど、世界的に過小評価されているシンガーはいませんでした。しかし、2010年代に入り、1990年代以降、キャリア的にパッとしないと思われていた彼女に対するリスペクトを公言するレディー・ガガ(1986-)やニッキー・ミナージュ(1982-)、ケイティ・ペリー(1984-)、マイリー・サイラス(1992-)といったスーパースター達が現れ、その活躍に呼応するかのように、コツコツとブルース・シンガーとしての新境地や、同性愛者に対するボランティア活動、そして、そんな流れから生み出されたブロードウェイ・ミュージカル「キンキー・ブーツ」の作曲によるトニー賞受賞(2012年)という快挙により、シンディ・ローパーは、完全に復活を果たしたのでした。
それにしても、リアル・タイムではシンディの全盛期を知らないはずの21世紀のスーパースター達が影響を与えられた要素はどういったものなのでしょうか?そんな80年代に突然現れた衝撃的な彼女のスタイルの独自性と先見性について掘り下げずして、21世紀のファッションの今を語ることは出来ないでしょう。
現在はプチプラ・ファッションの世紀でもあり、「寄せ集め」スタイルが新しい進化形態を遂げ、個性的なものを集めて自分のキャラクターを創造することを楽しむアンチ・トレンド時代へと突入しつつあります(もしくは個人がSNS発信でトレンドを作る時代)。つまりは、ミニマルよさらば!そして、ノームコアという言葉は瞬殺のごとく死に絶えたのです。いくらメディアがトレンドを作り出そうとしても、そんなものに踊らされる人々は、「自分を持っていない人」確定の烙印が押される訳なのです(無印が無個性を表す時代の幕開け)。そんな中、個性とトレンドがごった混ぜになった80年代ファッションの復興が始まろうとしているのです。そう、シンディ・ローパーという奇抜な当時のスーパースターが発信していたファッションセンスは恐らく30年早かったのでしょう。そして、今30年の年月は経ったのです。
私が出てくるまで、彼ら(音楽業界)はいかにしてMTVのためのファッションをまとめたらいいのか全然わかっていなかったし、ユーモアと音楽の結びつけ方も知らなかった。
シンディ・ローパー
まずは、シンディ・ローパーという存在の凄さについて箇条書きしていきます。
1.マドンナに大いなる影響を与えた「寄せ集め」ファッションの創造
2.完全にオリジナルなぶっ飛んだヘアメイク
3.同性愛とトランスジェンダーとミュージシャンの架け橋になる
4.音楽と映像の共犯関係にいち早く気づいた人、MTVにユーモアの要素を入れた人
1984年から86年にかけ、シンディ・ローパーはマドンナ(1958-)の唯一の同性のライバルと考えられていました。もっともシンディがマドンナから影響を受けたことは一切ないのですが、マドンナは、明らかにシンディから多くの影響を受け、吸収していたのでした。そして、シンディ・ローパー旋風が一段落ついた1989年に発表されたこの曲「涙のオールナイト・ドライヴ」こそが、その全盛期に発表されたどの曲よりも魅力的であり、後のファッション・シーンを先導する女性のクールさを体現した作品として21世紀において、さらに評価が高まっている作品です。
この曲は、元々は「ライク・ア・ヴァージン」や「トゥルー・カラー」のビリー・ステインバーグとトム・ケリーがロイ・オービソンのために作詞・作曲した曲であり、ロイにより1987年にレコーディングされていたのですが、シンディ・ヴァージョンが先にリリースされたのでした(ロイ・ヴァージョンは、彼の死後1992年にリリース。ちなみに2003年にはセリーヌ・ディオンがカバーしている)。
「涙のオールナイト・ドライヴ」ファッション
ミュージック・ビデオはシンディ・ローパー自身により監督されました。「私はたぶん9つぐらいからずっと髪を染めてきた」というシンディがスカンクヘアで登場します。こんな滑稽なヘアスタイルにミスマッチなほどシンプルな赤のスリップドレスで登場し、やがて、50年代風のポルカドットドレスを経て、曲が完走する頃には、すっかりその滑稽な姿がクールに見えているのです。まさにファッションにおける〝刺激を与えられた女性は、もう普通では満足できない〟という魔法に包まれた作品でした。ここにシンディ自身の言葉を引用します。
有名になったときはすごく奇妙だった。面白いのは、不思議な皮肉が起こっているのに気付き始めたことだった。着ている服が気に入らないからと、かつて私に石を投げつけた同じ頭のおかしな愚か者どもが、出かけていって私と同じような服を買うようになっていた。
あちこちに自分の別バージョンがいた。私の愉快でささやかな不正工作の手口は、こうだ。いつもすごくフォーマルな外見の人々に私は完璧にノーマルなんだよ、隣の女の子なんだよ、って思い込ませちゃう。そうするとノーマルな人は普通じゃない人に馴染んじゃって、それがノーマルみたいに思うようになる。突然、人々が私を見る前には絶対に着なかったようなものを着る・・・っていうムーブメントが生まれてしまうわけ。
今はもうないラスヴェガスのフロンティア・ホテルの前を裸足で走るシンディ。そのスカンクヘアの滑稽さとは対照的なまでにシリアスなクラシカルなハリウッド・ムービーから抜け出てきたかのような赤いスリップ・ドレス姿で独特な動きを見せます。このアンバランスなバランスの挙動こそが、レディー・ガガやニッキー・ミナージュなどの21世紀のファッション・シーンの先頭を突っ走っているポップ・スター達の琴線に触れたのでした。
シンディ・ローパー・スタイル1 リトルレッドドレス
- 赤のスリップドレス
- リング・イヤリング
そして、もうひとつのドレスである50年代ロカビリー・ファッションで登場するシンディ。しかも、この昔のマイクスタンドを使用したパフォーマンスのクールさ。ロックンロールというスタイルがこれほど似合う女性シンガーはなかなかいません。そして、彼女のファッション・スタイルの魅力は、「個性」的でありながら、歌唱力がホンモノである「ギャップ」の一言に尽きます。
シンディ・ローパー・スタイル2 ポルカドット・ドレス
- シフォンのポルカドットドレス
- 黒のカマーバンド
- リング・イヤリング
アルベルト・バルガスから得たヒント
(スタイリストで、スクリーミング・ミミのオーナーで友人である)ローラ・ウィリスがアルベルト・バルガス(40年代にいろいろなピンナップ・ガールを描いた人よ)のスタイルを勧めてくれたので、本屋に行ってバルガスの本を探し・・・それが『ア・ナイト・トゥ・リメンバー』のための私の新しいイメージとなった。
シンディ・ローパー
1989年のシンディ・ローパーが、デビュー当時のイメージとは一転し、大人の色気に包まれているのは、彼女自身意識して20年代から30年代の(ジーン・ハーロウのような)クラシック・ムービーのプラチナ・ブロンド美女をそのスタイルに取り入れていたからでした。
アルベルト・バルガス(1896-1982)とは、ペルー出身のアメリカのイラストレーターで、1919年以降、ブロードウェイ・ミュージカルのジーグフェルド・フォリーズのポスターと美術を担当しました。そして、ジーグフェルド・フォリーズが終了した1931年以降ハリウッドに移動し、1940年代には雑誌「エスクワイア」のためにピンナップ・ガール画を描くようになります。このイラストこそが、〝バーガ・ガール〟と呼ばれるものであり、第二次世界大戦中に〝男の理想を体現したかのようなエロティックな画風〟によってGIのハートと下半身を鷲掴みにしたのでした(戦闘機の機首に描かれたりもした)。
戦後には、1956年から58年にかけてミス・ユニバースの審査員をつとめ、1960年に『プレイボーイ』のヒュー・ヘフナーのために64歳にして復活を遂げる。以後、16年間働き、152枚のイラストを残しました。
50年代ポルカドット・スタイル
シンディ・ローパーという存在は、圧倒的な崩しの美学から成り立っています。美人というよりは、親しみやすいルックスを、多分にアーチ状に描いたアイブロウと、1975年から76年にかけてヴィダル・サスーンのデモンストレーション・モデルをつとめていた経験から生まれた奇抜なヘアスタイルとファッション、更には独特な動きと表情によって、ひとつのローパー・ワールドとでも呼ぶべき世界観を打ち立てたのでした。それでは、シンディのファッション美学の全てを見ていきましょう。まずは彼女のバックグラウンドから。