神の領域に到達した資生堂時代のセルジュ・ルタンス


1973年のセルジュ・ルタンス





1980年に資生堂の外国部長であった福原義春(1931-)の要望により、セルジュは、資生堂のグローバルイメージ展開の責任者になりました。より分かりやすく言うと、資生堂がSHISEIDOになるための広告宣伝部長(ヒトラー政権におけるゲッペルスのような役割)を担うことになったのでした。
そして、1982年伝説の「ノンブルノワール」をプロデュースすることになりました。これが、セルジュと香水のはじめての係わり合いとなります。
私はモロッコを訪れるまで特に香水に興味はありませんでした。いいえ、むしろ、香水を嫌っていたと言ったほうが正確でしょう。1968年にディオールの仕事でモロッコを訪れ、スークの近くから香ってきたシダーに夢中になりました。これが私の香りの原点です。
私は、香水を作り方を全く知らなかったので、通常はやってはいけないことも、どんどんやってしまいました。そして、それが私の香りのオリジナリティとなったのです。私の香りは、調香師から生まれるものではなく、香水作りの専門的なプロセスを無視したところから生まれているのです。
さらに、1985年には、資生堂INOUIのリニューアルを担い、そのコマーシャルフィルムはカンヌ映画祭で金賞を受賞しました。まさにセルジュの資生堂時代の活躍により、今日まで続く美容広告のスタイルが確立されたのでした。
山口小夜子



たしかに私はメイクアップと香水産業に革命を起こしました。しかし、今ではこれらの産業は、明らかに間違った方向に進んでいます。
真の意味での贅沢品とは、あなたとその対象物の距離により生まれるものです。
そして、資生堂時代に山口小夜子とのコレボレーションも活発化し、資生堂は、現在の「ジョージア=癒し系」のような、ただただマーケティングのためにだけ存在する化粧品ブランドとは一線を画した芸術を生み出す化粧品ブランドとしての頂点に登り詰めたのでした。
香りに目覚めたセルジュ・ルタンス


セルジュ・ルタンスは、多才なアーティストであることに加えて、メイクアップアーティストでもあった最初の人物でした。彼の作品に馴染みのない方には、資生堂のインウイ・ラインのために彼が手がけた広告をご覧になることをお勧めします。彼の作品は単なるメイクアップの記録ではなく、極めて絵画的で、魅力的で、時代を超越した、芸術的なビジョンそのものでした。
イサマヤ・フレンチ
私の中には一人の女性がいます。そして、私はこの女性自身でもあり、この女性の夫でもあります。私は絶えず、彼女を満足させるために何かを創造するのです。
1992年に元々書店があった場所に、レ・サロン・デュ・パレロワイヤル・シセイドーをオープンしました。そして「フェミニテデュボワ」の創作により、10年ぶりに香水に関わることになります。以後、セルジュは、本格的にフレグランスの創作を開始し、2000年から、資生堂の資金援助を受け独立し、パルファム・セルジュ・ルタンスをスタートさせました。
セルジュ・ルタンスのフレグランスの特徴は、彼自身がモロッコのマラケッシュに住んでいることもあり、どのブランドよりもはじめて本格的にアラブ世界のフレグランスを、従来の重すぎる香りから、軽く受け入れやすくしたところにあります。
そして、もうひとつ重要な特徴は、1992年より、彼のフレグランスの調香師をつとめているクリストファー・シェルドレイクという盟友の存在です。しかも、ルタンスらしいのは、「私の香りのイメージは、全て独りで創造しているのだ」と言い切ってしまう所にあります。
セルジュの陰となり、恋女房のように彼がイメージしている香りを忠実に創造するシェルドレイクの日本の侍のような姿が、彼のもう一人の盟友であるシャネルのジャック・ポルジュとの関係性ととても似ていて興味深いです。
ちなみにこの二人がはじめて対面したのが、日本だと言うのも面白い事実です。セルジュは、2007年に、フランス芸術文化勲章最高章である「コマンドゥール」を受章しました。
セルジュ・ルタンスの人物像について

セルジュ・ルタンスが自分を象徴する絵画だと考えているパブロ・ピカソの「アビニヨンの娘たち」
私は香水とライフスタイルを結びつけて考えたことなど一度もない。
香水が商業主義に支配された今、最も問題なのは、新しい香水ならどんなものでも尻尾を振り購入する人々や、ファッションブランドが(調香師とではなく)会計士と作り上げた香水を喜んで購入する人々の存在にあります。
セルジュ・ルタンス自身は、ずっと独身であり、モロッコのマラケッシュで一人暮らししています。彼は、白雪姫と呼ぶオスの犬を飼っています(子供の頃、最初に見た映画がディズニーの「白雪姫」だったかららしい)。
彼はテレビ、インターネットを一切見ず、携帯電話も持ちません。そして、食事は断食に近いほどの小食であるという(15歳の頃から、1日に1回、夜に少量しか食べないという。「私の最も嫌悪するもののひとつ。それは脂肪です」)。
彼の一日は午前5時くらいの目覚めから始まり、3、4時間ノートブックに延々と文章を書き連ねるか、本を読むかして正午まで過ごします。その結果、今までに何千冊ものノートブックが出来上がったのですが、それを読むことはないと言います。
22歳でジャン・ジュネを読んだのは、私にとって大きな衝撃でした。彼の作品はすべて暴力的でありながら詩的です。どの文にも、どの行にも詩情が宿っています。80年代に彼と会う機会をいただきましたが、丁重にお断りしました。神に直接会うなんて、考えたくもありませんでした。一体何を話せばよかったのでしょう?
パリに行くと必ずリヴォリ通りにあるガリニャーニ書店に立ち寄り多くの本を購入するというセルジュは、ボードレールとジャン・ジュネ、プルーストを愛しています。その理由が「彼らは文章を書くために生きていたからだ」と言います。そして、溺愛している映画が、ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」とジョセフ・ロージーの「召使」です。
彼が愛しているファッションは、ヨージ・ヤマモト、イヴ・サンローラン、シャネルだという。それはそれらのファッションの背景に物語を感じるからということです。「私は、誰かに注目してほしいという服を作るファッションデザイナーを真のデザイナーとは考えない」

©Serge Lutens
彼は1974年以来、3,000平方メートルを超える巨大な宮殿にも匹敵する豪華さと美しさを誇るマラケッシュの旧市街にある家を改修することをライフスタイルにしています。しかし、この200以上の部屋がある大豪邸に人が招かれることはほとんどありません。
さらに言うとセルジュは、この大豪邸を建てたものの、そこに住むことは一度もなく、むしろヤシの木立にある質素な家に住むことを選んでいます。
ルタンスの作品からは、騒々しく、蕪雑で、品格を欠いたものに対する、静かだが激しい拒絶の念が感じられる。
西垣通
もともとルタンスの作品世界をつらぬくのは「抑制の美学」である。それがふしぎな気品と官能性をかもしだす。その雰囲気は歌舞伎というよりは能に近い。動よりは静を、豊麗よりは簡素を、誇張よりは沈黙をというのがルタンス流のスタイルの基本なのだ。
西垣通
最後に、セルジュ・ルタンスは当初、日本の京都のお寺の前にパレ・ロワイヤルのような一号店を作りたかったらしいです。なぜそれが実現しなかったのでしょうか?もし実現していたら、それはとても素晴らしいことだったと思います。
セルジュ・ルタンスの香りのラインナップについて

©Serge Lutens

©Serge Lutens
2015年に資生堂の傘下に入り、目まぐるしくコレクションが盛衰してゆき、少し分かりにくいセルジュ・ルタンスのフレグランスのラインナップについて整理しておきましょう。
まず最初に一般的にセルジュ・ルタンスの香りと言えば、『コレクションノワール』の香りのことを示します。このコレクションの中には「フェミニテデュボワ」などの名香が揃っています(一般のルタンス取り扱い店舗で販売されているのはこのコレクションです)。
さらに過剰な香水の匂いに満ち溢れたこの世界に対する反乱という〝アンチ・パフューム〟のコンセプトで2009年に生み出された香りのコレクションが『ロー コレクション』(通称:ルタンスの水・シリーズ)でした。このコレクションは、2019年に生み出された『コレクション ポリテス』と共に廃盤となり、2022年に『マタンルタンス』コレクションとなり、今に至ります。
そして、セルジュ・ルタンスの最高峰のコレクションとして2014年に『セクションドール』が誕生しました。しかし2022年に廃盤となり、2025年に『ロワイヨームデリュミエール/光の王国』という新たなる名と共に、転生を遂げました。
その次に位置するコレクションとしてかつて存在したのが、2018年からごく最近まで展開していた『グラットシエル』でした。
最後に、パレ・ロワイヤル本店と香港のK11 MUSEA限定の釣鐘ボトル・コレクションとして『レフラコンドターブル』が存在します。
