ロードゥ イッセイ
原名:L’Eau D’issey
種類:オード・トワレ
ブランド:イッセイ・ミヤケ
調香師:ジャック・キャヴァリエ
発表年:1992年
対象性別:女性
価格:50ml/13,200円、100ml/18,480円
販売代理店ホームページ:ラトリエ デ パルファム
1992年。前人未到の「水の香り」が誕生しました。
もし私自身がこの香りを生み出せたなら・・・と妄想する香りは、「ロードゥ イッセイ」です。そこには、温かさと新鮮さの完璧なバランスが存在します。
ティエリー・ワッサー(ゲランの五代目専属調香師)
1992年に、香水の歴史の新しい一ページをめくる未知の香調オゾンノートが誕生しました。オゾンノート、それは、1988年にはじまるマリンノートの進化形とも言われる香調であり、〝海水〟から〝純粋な水〟へと突き進む、人間の自然回帰の欲求が生み出した香調でした。
この香調を生み出した香りの名を「ロードゥ イッセイ」と申します。その名の意味は〝イッセイの水〟です。それは、イッセイ・ミヤケにとって最初に生み出された香りであり、現在、ルイ・ヴィトンの専属調香師をつとめているジャック・キャヴァリエにとって本格的に調香した最初の香りでした。
人間にとって、太陽と土と水と空気がなければ生きていけない。マリンノートが、海と海風と海水が乾いた肌の香りであるならば、オゾンノートは、先ほど挙げた人間に必要な要素をすべて連想させる香りなのです。
この香りの名を発音すると、古代ギリシアの叙事詩オデュッセイア=「オデッセイ」とも聞こえるこの「ロードゥ イッセイ」の誕生により、香水は新しい役割を果たすことになったのでした。それは『生命の水』としての役割です。
1990年にマリンノートが誕生しました。
カロンは決してきれいな香りではないのですが、上手に使えば、シャンパンとワインの違いのように、香りをより生き生きとしたものにすることが出来るのです。
アン・ゴットリーブ
カロンの流行は、時代の流れでした。人々はより自然な香りを求めるようになっていたのです。
オゾンノートの誕生の立役者は、ジャック・キャヴァリエが使用した合成香料カロンの存在です。1966年に誕生したこの合成香料は、当初はフレッシュリネンの匂いをランドリー製品に与えるために使用されていました。
最初にカロンが使用された香水は、1990年にアラミスから発売された「ニューウエスト」(イヴ・タンギー)でした。ニューウエストの海を連想させるこの香りは、雷雨の後の濡れた空気の電気的な匂いやオイスターの匂いを感じさせるマリンノートの先駆けとなりました。
すぐに「ケンゾープールオム」(1991)が続いたのですが、カロンをトレンドとして確立させたのは、カルバン・クラインの「エスケープ」(1991)でした。
この香りのクリエイティブ・ディレクターだったアン・ゴットリーブが「クリーンな香りが、セクシーさの新しい代名詞となった」と高らかに宣言したことにより、香水の新時代が到来したのでした。
三宅一生とシャンタル・ルース
三宅一生の言葉を借りるなら、「私の仕事は、服と身体の間の空間を構成することです。香水は、この空間で存在を許される唯一の主(あるじ)です」。水は生命の象徴でもあり、濃厚で官能的でありながら繊細、澄んでいて透明、それでいて力強く、限りない機能とファンタジーを持っています。
『香水ブランド物語』 平田幸子
1987年に資生堂の社長に就任した福原義春(1931-)は、三宅一生(1938-2022)のことを、東京の学生時代から知っていました。そして、様々なファッション・ブランドがフレグランスを作り始めていた1980年代に「あなたのブランドは、あなたのフルネームが冠されています。だから、ただフレグランスを作ってもらうのではなく、あなたの精神を反映させたものでなければなりません。資生堂にならそれが可能だと思います」と口説き落としたのでした。
かくして資生堂は、イッセイ・ミヤケのはじめての香りを作るために、日本国内でプロジェクトを進めて行くことにしました。しかし、プロジェクトは全く前に進みませんでした。
私はフレグランスを作るというアイデアが好きでしたが、自分自身は、飛行機やシアターで強すぎる香水で不快な思いをしたことが何度もありました。さらに言うと、フレグランスの文化に全く興味がありませんでした。日本の香りが嫌いだということ以外、何も知りませんでした。粉(パウダー)の香りが強すぎるからです。だから、長い間、自分には香水は作れないと思い込んでいました。
三宅一生
そこで福原は国内で作るという考えを改め、香水作りの本場であるフランスに自立した存在として1990年10月にボーテ・プレステージ・インターナショナル社( BPI )を設立して、世界市場で香水を生み出してきたプロの手に委ねる事にしたのでした。
そして、イヴ・サンローランで「オピウム」(1977)「クーロス」(1981)「パリ」(1983)を成功に導いたシャンタル・ルースを説得し、彼女に新会社を率いてもらう事になりました。当時、イッセイ・ミヤケの名は世界でそれほど知られていませんでした。
シャンタル・ルースの苦悩
私はいつも、フレグランスは小さなコスメカウンターの片隅で生きているものではないと申し上げてきました。フレグランスは、今起きているすべての社会的な出来事を集約したような存在なのです。
「ロードゥ イッセイ」は、90年代という時代を象徴する香りです。〝少ないことは多いこと〟まさに禅の精神です。そして、女性にとって最も必要なものが〝純粋な水〟だということを教えてくれた香りでした。
シャンタル・ルース
最初のパリの会議でシャンタル・ルースが三宅一生と会ったとき、三宅は彼女にはっきりと「私は香水が好きではありません」と伝えました。唖然とした一堂の中でシャンタルが「では、どのような香りが好きですか?」と聞いた時、「〝水〟まったく匂いがないもの」と答えたのでした。
さらに三宅はこう続けました。「なぜ女性はフレグランスをつけるのですか?清潔な水で身体を洗い清めた女性が、最も美しい香りを放つと私は考えています」。
とりあえず、シャンタルはまず三宅に最も有名な30種類の香水を贈り、その反応を確かめ、彼の考えを明確にすることから始めました。その結果、唯一「N°5(No.5)」だけ彼の心を捉えたのでした。
ここに資生堂の当時の調香師・中村祥二氏の興味深い文章がございます。以下『調香師の手帖』より。
パリで三宅氏の香水の最初の企画打ち合わせに同席したことがある。三宅氏の提案を楽しみにしていた雰囲気は、会議が始まると驚きととまどいの入り交じったものに変わっていった。
三宅氏から出たのは「Water and Air」「Transparent」「Pure」「Clean」、それに「Contemporary(現代の、この時代の)」という言葉だった。このような香りはこれまでになかったし、つかみ所がない。かなり難しいなというのが私の最初の印象だった。調香は私ではなくヨーロッパの香料会社の担当に決まっていた。
調香のすすみ具合がかなり難航している様子が時々伝わってきた。シャンタル・ルースが三宅氏とパフューマー(ジャック・キャヴァリエではないと思われる)との間の調整の難しさに困り果て、涙を見せたほどだったという。
三宅一生が求めていたもの。
それはロードゥ イッセイです!
2020年に「あなたの生み出した香りの中で最も誇りに思う香りは何ですか?」という質問に対するシャンタル・ルースの答え。
シャンタル・ルースは、「(香水が嫌いな)私を驚かせてください」という三宅の期待に応えるために何度も何度も打ち合わせし、彼にとって〝水=究極の純粋さ(ピュア)〟だと納得したのでした。
彼にとって最高の香りとは、植物に降り注ぐ露や雨の水の香りであり、それは三宅の幼少期の最も鮮明な記憶に基づくことを知ったのでした。それは菖蒲湯の匂いでした。「日本では5月5日は男の子にとって特別な日(端午の節句の日)です。菖蒲の根や葉をお風呂に入れるのです。花ではなく、長い葉が植物の匂いを漂わせるのです。」
私は、香水のことを考えるとき、最初に思い浮かぶのは水であることに気がつき、私は水が好きだと考えました。水とは何ですか?フレッシュです。それは海です。それは私が崇拝する雨です。水は生命とエネルギーの源なのです。ピュアで、流行に左右されず、不滅の存在なのです。
三宅一生
私は水のように透明で、香水でありながら、可能な限り少ない匂いで、衣服のように、女性やその肌に合わせて動く、女性を包み込むような香水を望んでいました。
三宅一生
そして、「女性にとっての嗅覚の美学とは、身体の上を流れる水の清らかさである」という三宅の言葉に、突破口を見い出したのでした。シャンタルは、日本文化において、香水を使うことは、ある意味、相手の領域を侵すことになるということを深く理解した瞬間でした。
しかし、それはパリの調香師たちにとって、自分たちが大切にしているものすべてに反するようで、簡単に受け入れられるものではありませんでした。ある調香師は「なぜエビアンの水をボトルに入れないのですか?」とシャンタルに尋ねたほどでした。
発売日は決定していたのですが、何度試作品を提出しても却下される中、彼女はフィルメニッヒ主催の昼食会でイッセイ・ミヤケのシャツを着た若い男性の隣に座ることになるのでした。それは運命の出会いの始まりでした。
ジャック・キャヴァリエの登場。
三宅一生さんは、元々、ボトルの中の水の香り、あるいは、日本の儀式や清潔さにおいて水はとても重要なので、水のアイデアが欲しいと言っていました。
しかし、もちろん、水は純粋であれば匂いません。そこで私は、かつて数週間日本を滞在した時のことを思い出し、その繊細で、洗練された文化、そして残酷さについてさえも考えました。食べ物や自然、そして水が象徴するもの、そして、私は日本の水は、オスマンサスとピオニー、そしてシダーの木により表現できると考えたのでした。
ジャック・キャヴァリエ
このイッセイ・ミヤケのシャツを着た長髪の青年は、隣に座るシャンタルに、三宅一生というデザイナーの素晴らしさについて熱心に語っていました。三宅一生の作品をずっと追いかけてきたことが明らかな彼の姿勢に彼女は心打たれました。
他の調香師と違って、彼はイッセイ・ミヤケの文化的な側面を吸収していたのです。翌日、シャンタルは彼の上司に電話して、「あと一ヶ月しかないから頼むのをためらうんだけど、ランチで隣に座っていた若い調香師が、イッセイ・ミヤケのプロジェクトに参加することを承諾してくると思うかしら?」と尋ねたのでした。
かくして二つ返事でその青年が調香に取り掛かることになったのでした。彼こそが、当時30歳の若き日のジャック・キャヴァリエでした。
そして、シャンタルが翌日から東京に行き、二週間後に戻ってくるまでに試作品を作っておいて欲しいとお願いしたのでした。すると帰国後になんと五つもの試作品が置かれていたのでした。キャヴァリエは昼夜を問わず、ナポレオンのように3時間しか寝ないで、仕事に励んだのでした。
ちなみに、この作品を生み出すためにキャヴァリエは、日本を訪問したことも、三宅一生と直接打ち合わせしたこともなく、僅か完成予定日の一ヶ月前にプロジェクトに参加したのが真実です。ですが、誤った逸話が生み出されたことが、この香りの神話性を益々高めていったのでした。
「香水界のモーツァルト」の誕生
私は彼を香水界のリトル・モーツァルトと呼んでいます。モーツァルトは頭の中に音楽があり、書いて書いて書き続けることが出来ました。ジャックも同じです。彼は私と話しながらフォーミュラを書き続けているのですから。
シャンタル・ルース
ジャック・キャヴァリエは、三宅一生の創作方法を研究し、彼が使用する素材とその扱い方を調べました。そして、彼のスタイルや水に対するコンセプトと並行して、香りのイメージを膨らませていきました。
すぐにボトルは完成しました。そして、それを見た時にイメージはシンプルで明白になったとキャヴァリエは述懐しています。「ボトルを見てから10分で、基本的なアイデアが固まりました。そのボトルからはエネルギーが感じられ、その感覚を香水に置き換えたのです」。
私の挑戦は香水の構造と美的形成において、まったく新しいものを創り出すこと、パワフルで永続的なフレッシュネスを創り出すことでした。この香水は、革新的で、他とは違う、生き生きとした輝きを放つものでなければなりません。それはこの香りを作るまで、実現されたことがないことでした。
ジャック・キャヴァリエ
ベルガモット、レモン、マンダリンといった柑橘系の香りを持つ古典的な〝新鮮な水=オーデコロン〟の香りは、非常に揮発性が高く、一瞬のうちに消えてしまいます。しかし、科学研究の大きな進歩を利用し、驚くべき粘り強さを持つ〝新鮮な水〟を作り上げたのでした。
そして、この香りのフレッシュなオゾンノートは、他の香りのオゾンノート(=マリンノート)とは全く違うものでした。この香りは、海水ではなくフレッシュウォーターの香りを持つ、純粋で非常に自然な水の香りでした。
1991年11月13日午後7時、三宅一生が「これで終わりだ。完成だ。これが私の香水だ」とシャンタルに伝えました。ついに「ロードゥ イッセイ」は完成しました。キャヴァリエは、ギリギリでプロジェクトに参加して僅か二ヶ月で生み出したのでした。
三宅は「あなたはこの香水を作ったのではなく描いたのだ」という究極の賛辞を送りました。そして、キャヴァリエを自宅に招待したのでした(日本中を数週間旅した)。
1992年にヨーロッパ最大級のデパート、ギャラリー・ラファイエットで大々的にローンチされ、一週間のこれまでの売り上げを破ることになりました。そして、まずアメリカで社会現象になるほどのヒット作となりました。やがて、世界的なオゾンブームを生み出し、オゾンノートとマリンノートの香りは、1990年代を象徴する香りとなったのでした。
今はファッションよりも香水で私を知ってもらうことが多い。
三宅一生(1994年)
あなたから逃げていく〝一滴の水〟
美は夕陽のようなもので、撮ろうとするとすぐに消えてしまう。あなたが好きな美は、まさにあなたから逃げていくものなのです。
三宅一生
「ロードゥ イッセイ」で、調香師ジャック・キャヴァリエは、芸術のあり方を変えた。三宅一生から〝水の香りを作ってくれ〟と言われキャヴァリエが実際に作ったのは、誰も経験したことのない方法で香水を合理化した、最初のミニマルな香りのひとつだった。
この香水は、ローズ、ピオニー、スズランの素晴らしく軽やかなフローラルの核を中心に構成されていたが、彼はそれらの要素をロータス、メロン、カロンと呼ばれる(独創的な海洋性分子の)水のようなアコードの中に配置することで、ほとんど認識できないようにした。
チャンドラー・バール(ニューヨーク・タイムズ、2021年)
日本の四季の中で、冬が過ぎ、春が訪れ、自然が香りだす喜び。そんな〝スプリング・ウォーター〟の匂いは、最初からロータスとフリージアのみずみずしさを中心に、ピオニー、白百合、シクラメンといった白い花々の透き通るような香りが、ジューシーなメロンとカロンに溶け合うようにしてはじまります。
それはまるで透き通るようなフレッシュな空気とフルーティなピュアウォーターがひとつになり繊細にスパークリングするようなグリーンのきらめきのようです。
ハートノートは、とても白い花の香りがします。しかし、オーキッドやイランイランのような重い花は使いませんでした。ただしチューベローズだけは加え、香水の中に喜びを表現しています。フレッシュな白い花の香料だけだととても冷たい香りになるからです。
私のスタイルはこの時に完成していました。それは風によってかき回されるたくさんの香りのデリケートな組み合わせです。滝から上がる水しぶきの香りであり、花の香りと春の森の香りとが混ざり合ったものです。このウッディな香りは、白い花とロマンティックでムスキーなハートを支える重要な要素です。
ジャック・キャヴァリエ
そして、白い花びらの上を〝一滴の水〟が流れていくようにローズ、スズラン、ライラック、ジャスミンの軽く爽やかな香りが呼び覚まされていくのです。その中でスパイシーなカーネーションとスモーキーなオスマンサスがカロンと結びつき、ささやかな神秘性を加えてゆきます。
やがて、一滴の水が肌を透かして心に染み入るように、シダーウッドとムスクが温かい余韻を与えながら広がってゆくのです。
この香りの中には自然環境を大切にするという将来に対する訴求を発信しているのが嗅ぎ取れるし、それが「Contemporary(現代の、この時代の)」を表しているのだと私は解釈した。
『調香師の手帖』中村祥二
〝研ぎ澄まされた知性を感じさせる〟ボトル・デザイン
ひと雫の水滴が飾られたシンプルでピュアなボトルは研ぎ澄まされた知性を感じさせる。
『調香師の手帖』中村祥二
当初、シャンタル・ルースは、イッセイ・ミヤケを象徴するプリーツのボトルデザインを望んでいました。しかし、三宅一生は「私がファッションですでに行っていることを香水のボトルで行うつもりはありません」と断言しました。
「何かオリジナルなことをするか、何もしないかのどっちかです」と言い、とてつもなく大きく芸術的なボトルを友人にデザインしてもらったのでした。しかし、「そんなものを売るのは不可能だ」とシャンタルに却下され、すべては振り出しに戻ったのでした。
そして、ピエール・ディナンの下で働いていた頃、彼女と「オピウム」で一緒に仕事をし、その後、「パリ」で協力したプロダクト・デザイナーのアラン・ド・ムルグが招聘されたのでした。
三宅は、時代やファッションを超越したシンプルなボトルを求めていました。その上で、永遠に続く水のような感覚を呼び起こすボトル・デザインを望んでいました。「水の透明感や空間への浮遊感を思い起こさせるもの」。かくして非常にピュアで空間に浮かぶ水滴の印象を与える形状にすることが決まりました。
三宅一生が生涯で唯一デザインしたウエディング・ドレス
さらに三宅はファビアン・バロン(90年代に「ハーパーズ バザー」を復活させたクリエイティブ・ディレクター)の参加を望みました。すでにパッケージ・デザインは彼に依頼されていました(ちなみに広告フォトは、アーヴィング・ペンで決まっていた)。
ファビアンはそれまでボトル・デザインの経験はなかったのですが、セカンドオピニオンとして、最終デザイン案だと、底面が狭くボトルが不安定になるので、細長いのはそのままにして底辺を広くしたボトルへの改善を提案したのでした。
さらに書道の一筆書きの感覚を移入し、完全な直線にせず、側面にわずかなカーブをつけ、ボトルのキャップもすべてを透明にせずに金属で覆い、スプレーを隠すことをアドバイスしたのでした。
最終的に三者が一体となって唯一無二なボトル・デザインが誕生しました。それは三宅一生がパリのアパートに住んでいた頃に見たエッフェル塔の上で輝く満月からインスピレーションを得たもので、満月とひと雫の水滴を併せ持たせた、水晶のような球体が乗っかかった金属キャップに円錐形フォルムのボトルが組み合わされたものでした。
このシルエットは、まるで空と大地をひとつの水滴がつないでいるような神秘性とエレガンスを感じさせるとても洗練されたデザインでした。
ファビアンのパッケージ・デザインは、イッセイ・ミヤケのクローズと同じ精神が採用されました。当初、日本の書道をイメージし、マットなパーチメント紙の採用が検討されたのですがあまりに高価なため、バニラ色の素材感だけそのままにして、真ん中に一滴の水滴を現す穴を開けたのでした。
最後に、三宅はジュースは水のように無色であるべきだと考えました。しかし、BPIのマーケティング部門は「女性はまず目で匂いを感じるのだから、色は必要だ」と主張しました。そのため妥協策として色は付けずに、自然な香水の色と肌に付けた水の色合いだけを反映させたのでした。
この香りの創造に対する三宅一生の感謝の気持ちは凄まじく、後にジャック・キャヴァリエのために彼の妻のウエディングドレスをデザインし、プレゼントしたのでした。
この香水の制作には、私のコレクションよりも多くの時間を費やしましたが、私はその結果に満足しており、その見た目や感覚に満足しています。
三宅一生
タニア・サンチェスは『世界香水ガイド』で、「ロードゥ イッセイ」を「メロン・フローラル」と呼び、「キャロン特有の軽くてグリーンのメロンアクアティックノートが1992年には目新しく映ったようだけど、今は窓ガラス洗浄液「ウインデックス」を思い出す人がほとんど。」
「不公平に見えるのは、これよりずっと価値のある同系統の「ルフードゥイッセイ」が販売打ち切りになったのに、この香水は生き延びたってこと。それに、すりガラスに入った高潔で、穏やかで、フレッシュな個性のない香水「シーケーワン」「アクアディジオ」「ライトブルー」の人気がでるだろうというのも感覚がずれている。」
「率直で心地よいスプリングフローラルはガラス洗浄液の香りだし、日本語の名前とシンプルな円錐のボトルはピュアでうるさくないようだけど、正直ありふれてる。ミヤケが水のような香りの香水にしてほしいと頼んだのは有名な話。水にはとくに何の匂いもないというのに、私のまわりでもってない人はいないくらい。今、手に入れる理由はどこにもない。」
「この香りの不気味な新鮮さが大好きというのなら、一風変わったティエリー・ミュグレーの「ミュグレー コロン」、あるいは爽やかさが印象的なジャコモの「サイレンス」をお試しあれ、ハートノートのありきたりなグリーンフローラルに惹かれるのなら、「クリスタル」や「プライベート・コレクション」を探して、これよりずっと満足できる。」と3つ星(5段階評価)の評価をつけています。
香水データ
香水名:ロードゥ イッセイ
原名:L’Eau D’issey
種類:オード・トワレ
ブランド:イッセイ・ミヤケ
調香師:ジャック・キャヴァリエ
発表年:1992年
対象性別:女性
価格:50ml/13,200円、100ml/18,480円
販売代理店ホームページ:ラトリエ デ パルファム
トップノート:ロータス、フリージア、シクラメン、ローズウォーター、ローズ、メロン、カロン
ミドルノート:カーネーション、ホワイトリリー、ピオニー、スズラン
ラストノート:オスマンサス、チューベローズ、アンバー、ムスク、サンダルウッド、シダーウッド