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エリザベス・テイラー

エリザベス・テイラー9 『クレオパトラ』1(3ページ)

エリザベス・テイラー
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クレオパトラへの道

1960年に撮影された『クレオパトラⅠ』の衣装その1。日の目を見ることはなかった。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その2。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その3。

ルーベン・マムーリアンが黒人女優のドロシー・ダンドリッジ(1922-1965)をクレオパトラに推す中で、スクーラスはジーナ・ロロブリジーダを推しました。最終的にはエリザベス・テイラーとオードリー・ヘプバーンのどちらかということになり、ウェンジャーがリズを推したこともあり、1959年10月15日に、当時のハリウッド史上初の100万ドル+興行収入の10%のギャランティで仮契約が結ばれました。いよいよ20世紀フォックスの機運をかけたスペクタクル時代劇『クレオパトラ』の撮影を始めるために、まずは古代エジプトとローマのセット建設がはじまるのでした。

リズがクレオパトラになる日の、ほぼ1か月前に、この映画の行く末を予感させる出来事がおこりました。それは、1959年9月19日の、ソ連の書記長ニキータ・フルシチョフがハリウッドを初訪問し、20世紀フォックスが歓迎昼食会を開いたことでした。その時、親善大使をつとめたのはマリリン・モンローでした。そして、フルシチョフが、スクーラスに対して「私は貧しい炭鉱夫の息子として生まれたが、今ではソ連の首相である」と言ったのでした。

その時、フルシチョフに喧嘩を売ろうとした男がいました。彼もまた炭鉱夫の息子でした。その男の名をリチャード・バートンと言います。そして、このパーティに夫エディ・フィッシャーと参加していたリズ・テイラーは、「なんて大人気ない人なの?」と夫に呟いたのでした。まだ、バートンがアントニーではなく、リズともほとんど面識はありませんでした。そして、このふたりは、僅か2年後に大恋愛に落ちることになるのでした。

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ロサンゼルスからロンドンへ。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その4。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その5。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その6。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その7。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その8。

日の目を見なかった『クレオパトラⅠ』の衣装その9。

20世紀フォックスのスパイロス・スクーラス社長は、600万ドルの予算で『クレオパトラ』の撮影は出来るはずだと考えました。そして、1959年半ばから、撮影セットをロサンゼルスに建設させました。しかし、人件費がかさむため、すぐに全てを取り壊し、ロンドンで撮影することにしました。この時、まだ台本は存在しませんでした。

脚本のない状態で、カリフォルニアからヤシの木が空輸され、パインウッド・スタジオの20万エーカーの土地に、60万ドルかけてアレキサンドリアとスフィンクスを作り上げたのでした。しかし、イギリスの空が青空を見せることはなく、セットはたえず雨にぬれ、テームズ河の岸辺は、どう見てもナイルの岸辺には見えませんでした。そんな中、1960年7月28日にリズ・テイラーと本契約を交わしました。そして、シーザー役に『ネットワーク』(1976)のピーター・フィンチ、アントニー役に『ベン・ハー』のスティーヴン・ボイドが決定しました。

リズは、60年8月にアメリカからローマへと向かいました。そして、オリンピックの開会式を観覧しました。9月15日より『クレオパトラ』の撮影は、パインウッド・スタジオでスタートしました。しかし、リズは撮影初日の9月28日に姿を見せませんでした(彼女には、一週間に3000ドルの生活費と、ドーチェスター・ホテルのスイートルームがあてがわれていました。更に夫エディ・フィッシャーにも〝リズを気持ちよく仕事させる係〟として15万ドル支払われました)。

悪名高き〝ドクター・フィールグッド〟マックス・ジェーコブソンによって処方されたメタンフェタミン中毒になっていたリズはずっと微熱で寝たきりでした。彼女は、スタジオに現れず、一日中ホテルで、ジャンクフードを食べ、レコードを聴き、ディオールマルク・ボアンが送ってきた新しいフランス製のドレスを試し、夜になると撮影を終えたピーター・フィンチとファイブカードのポーカーに興じるだけでした。彼女がセットに姿を見せたのは僅か2回だけでした。

その時に、衣裳を担当していたオリバー・メッセル(1904-1978、ヴィヴィアン・リーの『シーザーとクレオパトラ』の衣裳も担当していた)の素晴らしい衣裳を合わせに来たのでした。彼こそが、リズが滞在しているドーチェスター・ホテルのスイートルームの内装を1953年に行った人でした。しかし、結局この衣裳は全て使用されませんでした。

緊急入院するときも、毛皮を身にまとうリズ・テイラー。

1960年11月13日、リズは髄膜炎により緊急入院しました。11月19日全撮影は中断しました。61年1月18日に撮影は再開されたのですが、リズが撮影に参加することは1回もありませんでした。結局ロンドンの16週間の撮影で、700万ドルかけて撮られたフィルムは10分にも満たないものでした。

決定的な日がやってきました。1961年3月4日夜中リズが高熱で倒れ、ブドウ球菌性肺炎(セコナールとアルコールによる)であと一時間の命と診断されたのでした。呼吸困難となり気管切開をほどこされたリズは、生々しい切開傷を隠すために、作品中仰々しい首飾りをつけることになりました。

そして、4月17日に『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞を獲得したのでした。