60年代が古くなくなった2010年代
今なぜ1960年代が古くないのでしょうか?カトリーヌ・ドヌーヴを見ても、その携帯電話やパソコンのない暮らしを見ても、男女がスーツを着ている街並みを見ても、その時代の邦画を見ていても、60年代後半のヒッピー達のボヘミアンなエッジの効いたファッションセンスを見ても、「懐かしい」「羨ましい」「カッコ良い」と感じさせるのはなぜでしょうか?ちなみに私は、60年代には、この世に存在していません。DVD/BlueRay文化の素晴らしい所は、色褪せない映像で、当時の文化を伝承しているところにあります。
この『シェルブールの雨傘』を見ていて、感じるのは、昔映画で出来ていた事が、アニメーションに取り入れられていることを強く感じます。人々は、もはや現代の映画の中に期待するものはないのでしょうか?人間の心理の不思議さです。テレビCMやネット広告、街角の広告に氾濫する芸能人の姿を見て、女優・男優と考えるよりも、何かお金をもらい笑顔でその商品を手に取る生活人(SNS発信に夢中になる芸能人も同じく)に見えてくるのです。役者の神通力は間違いなくそこからは失われます。
それがティファニーやルイ・ヴィトンであるならば、神通力は失われないでしょうが、その商品の金額に反比例して、その広告塔の商品価値も落ちていきます。もはや、憧れの男女を、現在の映画の中に見つけることは難しくなったのでしょうか?歌って踊って演技の出来る大人アイドルたちが、着たファッションなんか、逆に絶対着たくないと考える男女が増えています。だから、過去への旅に人々は惹かれるのでしょうか?そして、なぜ60年代に憧れるのでしょうか?それは純粋培養された何かがそこには多く存在するからなのでしょうか?
ジュヌヴィエーヴ・ルック3 ピンク・カーディガン
- ショッキングピンクのカーディガン
- ピンクのヘアリボン
- 白のブラウス、そでが見えるバランス!
- グレーのプリーツスカート。
部屋の壁のピンクとグレーのストライプにマッチしたお母さんのレッドスーツ(レッドマフラー)、グリーンのステンカラー・コート、3連の真珠のアンサンブル。そして、エルメスのブラックパテントのケリー・バッグ。さすがにお母さんもすごく魅力的なのです。
純粋培養された美。失われた美
まだ映画が映画として存在できた時代。テレビ時代が到来する前の映画。そこには一流の人材が集まり、情熱を傾けています。物を作るということに、絶対欠かせない要素が三つあるならば、それは
1.時間
2.情熱
3.才能
です。“時間”は、すぐに報われない努力を継続することにより生まれる忍耐力が、誰にもマネの出来ない独自性を生み出します。“情熱”は、色々な雑音の入らない純粋培養された空気の中から生み出されます。“才能”は、マニュアルや決められたスタイルに縛られず、自分を信じる気持ちから磨き上げられます。それはより厳密に言うと、自分を過信し、明らかに間違った方向に猛進した人が、考えていた結論とは全く違う、すごい究極を見つけ出すという奇跡も生み出します。この作品の中に、カトリーヌ・ドヌーヴの声は存在しません。全編ダニエル・リカーリの吹き替えです。当時も今もこういう作品を作ることは大いなるリスクでした。
唐突ですが、ファッションとは何でしょうか?ファッションとは、時代との適合でしょうか?いいえ、そういうことは、ファスト・ファッションという名のインスタント衣料販売業に任せて置けばいいのです。まがりなりしも、ファッションと名のつくものから欠けてはいけない要素も、上記の三つの要素なのです。素晴らしい映画を見ることは、素晴らしいファッションセンスを磨くことに直結している理由はこの三つの共通点からなのです。そして、インスタントなファッション提案(インスタやまとめサイト)を見ても、ファッションセンスを磨くことが出来ない理由もこのことからなのです。
ジュヌヴィエーヴ・ルック4 クリームコート
- ウィンタークリームコート、ピーターパンカラー、紐リボン
- 白レザーグローブ(間違いなくエルメス!)
- シルバーのガマグチクラッチ
- 白のシフォンストール
- 白パテントレザーのメリージェーン
おしゃれなお母さんは、黄色のウールのチェスターコート、黒のサテンのロンググローブ。黒クラッチ、黒のハイヒールパンプス、黒リボンとシフォンの付いた黒いつば広帽です。