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ジョー・マローン・ロンドン

ジョー・マローンという生き方

ジョー・マローン・ロンドン
©Jo Malone London
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ジョー・マローン

Jo Malone 1963年にロンドンの貧困家庭の集まる公営住宅で生まれ育つ。フェイシャリストの母親が、突然脳卒中で倒れ、急遽一家の大黒柱として、15歳で学校を中退し、元々失読症であるハンデを抱えながら、母親の顧客に対して、フェイシャリストとして働く。

そして、5人の上客へのプレゼントとして生み出されたナツメグ & ジンジャー・バスオイルが、爆発的なヒット作になり、1994年10月17日月曜日にチェルシーに路面店をオープンする。以後、98年にバーグドルフ・グッドマンで扱われ、99年にエスティローダーに買収され、今に至る「ジョーマローン帝国」の幕が切って落されたのでした。

代表作

ナツメグ & ジンジャー コロン(1990)
グレープフルーツ コロン(1992)
ライムバジル & マンダリン コロン(1999)
154コロン(2001)
ネクタリン ブロッサム & ハニー コロン(2005)

ジョー・マローン・ロンドンの香水一覧

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一人の主婦が起こしたフレグランス革命

ジョー・マローンと夫のゲイリー・ウィルコックス。©Jo Malone London

妹トレイシー・マローンの結婚式(1989年6月)。真ん中の二人は母アイリーンと父アンディ。そして、右にジョーとゲイリー・ウィルコックス。

歴史上一人の主婦がここまで大きなフレグランス・ブランドを作り上げることが出来るとは、1980年代はもちろんのこと90年代においても、誰も考えられなかったことでしょう。ましてや、その主婦はフレグランスの勉強をしていたわけではなく、15歳で学校を中退している、学歴ゼロの女性であるならば尚更です。

その主婦の名をジョー・マローンと呼びます。今日本中の都市部の百貨店のコスメコーナーや、ハイセンスなファッションビルに存在するジョー・マローン・ロンドンの創始者です。もし、あなたがジョー・マローンの人となりを知ったならば、ジョー・マローンのフレグランスの魅力が、販売員が御題目のように唱えるフレグランス・コンバイニングだけではないことを知ることが出来るでしょう。元々のジョー・マローンのフレグランスの魅力は、重ねづけなどしない、シンプルな香りにあったのです。

1963年に生まれたジョーは、ロンドンの貧困家庭の集まる公営住宅で生まれ育ちました。絵描き(賭博好き)であり、無職の父親アンディ(1926-2007)は、マジシャンもしていて、ジョーは子供のころマジシャンのアシスタントをしていました。だから自宅には鳩と沢山のうさぎを飼っていました。そして、物心ついた時から父親の絵をローカル・マーケットで売る手伝いもていました。そのとき、彼女も初めて自分が作ったものを売ったのでした。それはTシャツでした。この頃にジョーは自分で作ったものを人に売る喜びを知ることになりました。

一家の大黒柱だったフェイシャリストの母親アイリーンは、1920年代後半からオリジナルのスキン・クリームを販売していた美容家マダム・ルバッティの下で働いていました。マダムは、エヴァ・ガードナーヴィヴィアン・リーといった顧客も持っている有名なフェイシャリストでした。ジョーも9歳位から母親の手伝いをし、マダムからサンダルウッドから作られた秘伝のフェイス・マスクの作り方を学んだりしました。そして、1970年代前半のマダムの死後、ブランドを母が引き継ぎぐことになります(妹トレイシーは1968年に生まれ、のちに彼女も美容家になり『ルバッティ』というブランド名で美容クリームを販売するも、2012年死去しました)。

しかし、母親が突然、脳卒中で倒れます。急遽一家の大黒柱になったジョーは、15歳で学校を辞めました。ジョーは元々失読症であるハンデを抱えながら、エリザベス通りの花屋で働きながら、夜はキッチンや出張で、母親の顧客に対して、フェイシャリストとしての腕を磨いていきました。

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ナツメグ&ジンジャー・バスオイル

ジョー・マローン・ロンドンは二つの時代に分かれています。ジョーがいた時代といなくなった時代です。©Jo Malone London

ジョー・マローンは、20代はじめに、母親と同じようにプロのフェイシャリストになりました。彼女は、自分の仕事に特徴を出すために、アロマティックな軟膏をマッサージに使用しました。昼から夜にかけては、自宅をマッサージパーラーにしました。そして、夜は、アパートのストーブの上で、バスオイルをミックスして自分好みの香りを調合する喜びにとりつかれるようになります。そんなある日、〝相反する素材を合わせてみたらどんな香り〟になるのだろうか?という純粋な疑問に対する答えを求めて、ナツメグとジンジャーをミックスしてみました。

こうしてナツメグ&ジンジャー・バスオイルは生み出されたのです。そして、フェイシャル・マッサージのお得意様の顧客5人に感謝の気持ちを込めてプレゼントしました。これが思いの外好評だったので、さらに10人の顧客にプレゼントしたのでした。この本当に自家製で作られたバスオイルが、90年代に英国で最も有名なフレグランス・ブランドの始まりになったのでした。

そのうちプレゼントした顧客の一人が、このバスオイルをたいそう気に入り、ディナーパーティーのゲストへのプレゼントとして100本オーダーしたのでした。そして、そのうちの86人が後日、追加注文してきたのでした。この時、ジョーは「フェイシャル・マッサージを捨て、フレグランスに生きる」決意をしました。1984年に結婚していた夫のゲイリーも、測量技師の仕事を辞め、ジョーのビジネスに協力しました。そして、1994年にチェルシーに路面店をオープンしたのでした。

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本物のジョー・マローン時代(1994-2006)

ジョー・マローン・ロンドンの創始者ジョー・マローン。©Jo Malone London

最初の大物顧客は、スノードン伯爵夫人ことセレナ・アームストロング=ジョーンズと、“ジョゼフ”のデザイナー・ジョゼフ・エテッドギーの妻イザベル・エテッドギーでした。特にイザベルは、〝ジョー・マローン〟のブランドの象徴ともなっているクリーム色のボックスに、黒いリボンという包装のデザインと、ヴィンテージの薬局スタイルのボトル・デザインを生み出す手助けをしました。そして、かつてバーグドルフ・グッドマンのファッション・ディレクターであり、1989年から1994年にグッチの社長になったドーン・メロ(1990年、トム・フォードをグッチのデザイナーとして起用した人)にも認められるに至り、1998年に、ニューヨークのバーグドルフ・グッドマンで扱われるようになりました。

複雑な香りのフレグランスに飽き飽きしていた人々が、高価な天然素材を使用したシンプルな香りに夢中になったのです。1999年に、ジョーはロンドンに旗艦店を作り、同年、エスティローダーに自分のブランドを売りました。以後も、ジョーは、クリエイティヴ・ディレクターとしてブランドに残りました。そして、ブランドのアンバサダーとして、世界各国を周るジェットセット・ライフを送りました。2001年にはニューヨーク・シティにショップがオープンします。さらに同年、念願のスキンケア・ラインがスタートしました。

しかし、2003年にジョーの人生は急転降下することになります。彼女は乳癌になってしまったのです。エスティローダーは彼女のために最高の医療技術を提供しました。科学治療を行い、回復し、仕事に復帰するも、2006年にジョーは、クリエイティブ・ディレクターを辞める事を決意しました。

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二つに分かれたジョー・マローン(2006-今)

現在のジョー・マローン・ロンドンの仕掛け人は、セリーヌ・ルー(写真左)です。©Jo Malone London

MBEを47歳で得たジョー・マローンは、チャールズ皇太子とも親交を結び、バッキンガム宮殿お付きのドクターにも定期健診してもらうことになりました。エスティローダーにブランドを売ったことにより、億万長者になった彼女は、2006年以降優雅なる引退生活を送ることになります。「ファースト・クラスで旅行をし、世界中のスイートに泊まりました。しかし、心は満たされませんでした。私は本当に美容ビジネスが大好きなんです」とジョー自身が語るように、美容業界に戻る決意をしました。

しかし、彼女はエスティローダーを退職する時に、5年間は同業ビジネスを行えないという条件を突きつけられていました。「その間、百貨店の美容・コスメコーナーを歩くのが何よりも嫌でした。自分自身の名前が冠された売り場を見るのは、特に複雑な気持ちになりました。だからこそ、違うビジネスをしようとも思いました。しかし、何の情熱も沸きませんでした」。

2009年3月、フランス人のセリーヌ・ルーという女性が、ジョー・マローン・ロンドンのクリエイティブ・ディレクターになりました。丁度その1年前の2008年9月3日にジョー・マローン・ロンドンは、東京・新宿の伊勢丹に上陸していました。以後、1年後に丸の内に日本初の路面店、さらに2016年には表参道ヒルズに路面店をオープンしたのでした(2016年に全国23店舗だったのが2020年には40店舗に拡大)。その時に、〝フレグランス・コンバイニング〟という概念でのブランディングを考えたのがセリーヌでした。

セリーヌ自身は調香師ではありません。彼女は、元々ディオールエスティローダーのメイクアップ部門で働いていました。南フランスで生まれた彼女の祖父は花の輸入業をしていました。グラースで生まれ育ったわけでもないセリーヌは、ロンドンのフラワー・マーケットなどで精油を購入し、成分の勉強を一から独学で行いました。それはちょうどジョー・マローンと同じようでした。

「現在、ジョー・マローン・ロンドンのフレグランスを作る調香師たちは、イギリス人ではありません。しかし、彼らがクリエイトするときには必ずイギリスに滞在してもらいます。私もフランス人ですが、ロンドンに住んでいます。外国人だからこそ、より敏感に感じ取れる英国の魅力を、自分の目と鼻で感じ、フレグランスに反映させることが出来るのです。」しかし、現実は、ジョー・マローン自身から彼女に託されたメッセージやレシピは何一つありません。

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ジョー・マローンの覚醒(2011年~)

『ジョー・ラブズ』の店舗の前に立つジョー・マローン。©Jo Loves

かつて10代の頃、初めて働いた花屋があったエリザベス・ストリートに一号店をオープンしました。©Jo Loves

ジョー・マローン自身で接客する日もあります。©Jo Loves

一方、5年間の実質的な謹慎期間が解けたジョー・マローンは、2011年にフレグランス業界への進撃のため、再始動します。そして、〝ジョー・ラブズ〟というブランドを立ち上げます。エスティローダーは、その動きに対して警戒心を見せました。一方、英国中のデパートは興味を持ち、ジョーに連絡を入れました。しかし、二度目の方が大変だとジョー・マローンが回想するように、最初の二年間は、あらゆるブランディングに失敗したのでした。

ジョー・マローンは、もう自分の鼻は利かないんだなと考え、何度か「ジョー・ラブズ」を閉めようと悩みぬいた末に生み出したのが、シトラス系のフレグランス『ポメロ』でした。『ポメロ』のヒットにより、2013年10月にロンドン・エリザベス・ストリートに一号店をオープンするのでした。

2020年3月現在、〝ジョー・ラブズ〟はまだ日本上陸を果たしていません。一方、セリーヌ・ルー率いるジョー・マローン・ロンドンは飛躍的にその名を高めています。しかし、そうであればあるほど、人々は、本物のジョー・マローンの香りについて惹かれる気持ちを隠しきれません。今のところ、ジョー・マローン・ロンドンについて、大半の人々は、ジョー・マローンという女性が作っていると考えています。しかし、実際のところ、現在のジョー・マローン・ロンドンのフレグランスは、2006年以降、ジョー・マローン自身による創造物は一切存在しません。

本当にジョー・マローンが創造しているものを購入したければ、2006年以前に発表されたジョー・マローン・ロンドンのフレグランスか、〝ジョー・ラブズ〟のフレグランスを手にするしかありません。

2011年4月29日にウィリアム英国王子とキャサリン妃のロイヤル・ウエディングにて、ウェストミンスター寺院のキャンドルに、キャサリン妃のリクエストにより、「オレンジ ブロッサム」キャンドルが使用されました(そして、一部に「グレープフルーツ」と「ライム バジル&マンダリン」を配して。コンバイン効果を生み出しました)。さらに、ゲスト用のトイレには、「オレンジ・ブロッサム」のハンドソープとローションが置かれていました。このことにより、ジョー・マローン・ロンドンの名は更に世界的な認知度を高めました。

こういった複雑な状況を知りつつ、たとえまだ、〝ジョー・ラブズ〟が手に入らなくとも、その上陸を心待ちにしつつ、今存在するセリーヌ・ルー=ジョー・マローン・ロンドンに首ったけな姿勢であっても、それはそれでよいのではないでしょうか。フレグランスの魅力とは、それを創造した人たちの手を離れ、いかに自分の香りにしてしまうかという所にあるわけなのですから。

そして、ついに2020年にジョー・ラブズが日本上陸することになりそうです。ZARAとコラボした8種類の香りによってです。