マドンナ生誕(1958)~デビュー前(1981)
Madonna 1958年8月、同じ月に、ファッションの歴史を一変させることになる二人のポップスターが誕生しました。その人の名をマイケル・ジャクソンとマドンナと申します(マイケルは8月29日、マドンナは8月16日生まれ)。
アフリカ系アメリカ人の男性マイケル・ジャクソンと、イタリア系アメリカ人の女性マドンナ。同じ月に生まれた二人(しかし、マイケルは乙女座で、マドンナは獅子座)は、この後の人生において、決して共同作業を行うことなしに、ポップ界の王と女王の地位を目指してそれぞれ突き進み、21世紀に入り、見事戴冠を果たしたのでした。
ファッションアイコンと呼ばれる数々のポップスターの中でも、マドンナほど、「反逆のファッション」を生み出してきた人はいません。彼女こそが、黒人のファッション感覚を、白人のフィルターを通して取り入れた史上初のポップスターであり、ストリートとファッションの融合を、ファッション・デザイナーよりもいち早く成し遂げた人でした。
つまり、彼女のファッションの遍歴を知らずに、1980年代以降の、ファッションの歴史を語ることは出来ません。ここまでファッション史に影響を与えた人が、どれだけいるでしょうか?彼女の存在は、ココ・シャネルに匹敵し、オードリー・ヘプバーンに匹敵するものがあるのです。
デボラ・ハリーとクリッシー・ハインド(プリテンダーズ)にはすごく刺激を受けたわ。二人とも女性で、バンドの中心人物だったでしょ。詞を書いていたのは明らかに彼女たちだし、ふたりとも強烈なイメージを持ってたからすごく勇気づけられたの。
マドンナ
本名:マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ
ほんの子どものころから、自分が女の子だってことや、いかにも女の子らしい魅力を振りまくことでたくさんのものが手に入る、って知ってたわ。それを最大限に利用したものよ。
マドンナ
父とは今はうまくいってるわ。父はあまりいろいろ話すタイプじゃなくて、あたしはずっとそれが不満だった。あまり感情を出さない人なのよ。そして何より、あたしは父に認められたかったの。父はいつもあたしに愛情を注いでくれたわ。父に対してはいろんな感情が入り混じっているけど、一番は死ぬほど彼を愛してるってことね。父にとってつらいのは、あたしに必要とされていないんじゃないか、って思うことよ。でも、あたしには父が必要なの。
マドンナ
宿題がないときは、父が何かしら家事を見つけてくるの。あたしたちに時間を有効に使え、って一歩も譲らなかった。父は貧しい家で育ったの、祖父母はイタリアからの移民なのよ。・・・私は父の性格をいくらか受け継いでるわ。頑固だし、場をシラけさせちゃうしね。・・・要するに、もし父が厳格な人じゃなければ、あたしの人生も変わってただろうってことなの。だって、父が厳しかったおかげで強い自制心が養われたと思うし、それはあたしの人生やキャリアにおいてすごく役立ったわ。
マドンナ
父親シルビオ(1931-)は、ミシガン州ベイシティで、クライスラーとゼネラルモーターズのデザインエンジニアでした。母親マドンナは、娘が5才の時に、乳癌で死去しました。マドンナにとって、母親の印象は、「いつも涙を流している美しい女性でした」。
彼女にとって、母親の笑顔を知らないことは、一つの苦しみであり、母親の分まで、一生懸命に生きようと、若くして誓うほどでした。そして、長女として、母親の役割を務めるようになった矢先の3年後に父親が再婚し、マドンナは父親に対し、複雑な感情を持つようになります。
教育熱心な父親により、ピアノも習い、すぐに、バレエも習うようになったマドンナは、父親に対する反抗心から、厳格なカトリックの学校において、奇抜なファッション・センス(服の一部を裂いたり、スカートを短くしたりというセクシーな着こなし)により目立つ存在になりました。
高校に進むと、マドンナはチアリーダー部に所属し、大観衆の前で自分の魅力を曝け出すことに喜びを感じました。この頃から、彼女は絶対にわき毛を剃らずに、堂々と同級生の男子に見せ付けるようなファッションに身を包んでいました。しかし、成績の方はオールAで優秀でした。
子どもの頃、黒人だったらよかったのに、って思ってたわ。女の子の友達はみんな黒人だった。その頃はミシガン州のポンティアックに住んでて、近所であたしは明らかにマイノリティだったのよ。聴く音楽もブラックミュージック。黒人の女友達が羨ましくてたまらなかった。だってあちこちつんつん立ったブレードヘアができるんだもの。あたしも髪を突っ立てたくて、四苦八苦しながら髪の毛にワイヤーを入れて編みこんだものよ。コーンロウやなんかにもよくしたわね。・・・あたしのお気に入りはシュレルズ、ロネッツ、マーサ・リーヴス&ザ・ヴァンデラス、そしてシュープリームス。彼女たちの音楽こそ、まぎれもないポップソングだわ。
マドンナ
マドンナ、ニューヨークへ出る
女の子たちはみんな黒のレオタードにピンクのタイツ姿。髪の毛はおだんごにして、小さな花をさしてるの。だからこっちは極端にショートヘアにして、突っ立つようにワックスで固めたわ。それからタイツを破ってあちこち伝線させて、レオタードの真ん中を大きく切り裂いて、それを安全ピンで留めていくの。みんなより目だって、こう言うためなら何でもしたわ、『いい?あたしはあんたたちとは違うの。そりゃダンスレッスンやなんかは受けてるけど、あんたたちみたいにここで終わったりしないわ』。
マドンナ
1976年に奨学金を得てミシガン大学音楽学部に入学するが、1年半後に退学します。そして、1978年7月、着古したレオタードやアクセサリーの詰まったボストンバッグと35ドル(当時のレートで約12000円)。たったそれだけを持ち、グレイハウンドバス(長距離バス)で、ニューヨークに出る決意をします。
そして、ニューヨークに到着したマドンナが、最初にしたことは、タクシーに乗り、当時、ニューヨークで一番賑やかな場所だったタイムズスクエア(この頃は、売春・ポルノの巣窟だった)に行く事でした。
そして、彼女は、そこで心に誓ったのでした。「絶対に成功してやる。絶対に成功しなきゃ。だってもうほかに行く所はないんだから!私はこの世界で神よりも有名になる!」と。マドンナのニューヨーク生活は始まりました。
1970年代当時、ニューヨークの治安は最悪でした。マドンナが最初に住んだ場所は、NYのカウンター・カルチャーの中心地ではあるが、スラム化の一途を辿っていたイースト・ヴィレッジのはずれのボロアパートでした。廊下にはアル中がたむろし、建物はすえたビールの臭いが立ち込め、部屋はゴキブリだらけというもので、生活のため、ダンキン・ドーナツでアルバイトをし、「道で見つけたものを食べたりゴミ箱をあさったり」しながら、空いてる時間の全てをダンスレッスンに充てました。
周りとは違うんだという精神!
うんとおめかしして外に出て、ぶらぶら歩き回るのが好きだったわ。その頃はタクシー代もなくて、よく地下鉄に乗ってたの。そして自分が周りに強烈なインパクトを与えてるのを見るのが好きだった。でも今じゃそんな楽しみも味わえないわ。だってもうみんなの気を引くことに成功しちゃったんだもの。街を歩いてもみんなの目に映るのは〝マドンナ〟で、誰もあたしをひとりの個性のある人間とは見てくれない、って感じるの。
マドンナ
この頃に、二人組の男性にナイフを突きつけられ、フェラチオを強制されたとマドンナは告白しています。「私はこの日を境に、強い女性として生きる決意をしました。あの日の屈辱は決して、今も、忘れません」。
そう、マドンナは、本当にストリートから生まれたスターなのです。そして、彼女の(あらゆるピリオドの)ファッションセンスが、いまだに若者さえも惹きつける理由は、ただ、ファッションでストリート・ファッションに身を包んでいるポップスターとの本質的な違いを敏感に感じ取っているからなのです。
マドンナは、誰かに作られたスターではなく、彼女自身の執念により生み出されたポップスターなのです。
これが、日本のあらゆるアイドル達が、彼女の足元にも及ばない根本的な理由です。なぜ日本には久しくファッション・アイコンが生まれないのでしょうか?その答えは、ここにあります。保護されて売り出された操り人形の着せ替えファッションなぞは、押し付けられたスタイリストが選んだ奴隷服に身を包んでいるだけに過ぎないのです。
「マドンナは誰にも支配されない」。まさにファッション・アイコンとは、誰かに作られた偶像とは真逆の存在なのです。