スーパースターの悲しみ
「オフ・ザ・ウォール」 1980年2月リリース。全米第10位/全英第7位
アルバム『オフ・ザ・ウォール』の第三弾シングルです。この曲の作詞・作曲もマイケル・ジャクソンではありません。この曲も日本のCMソングに使用されました。
マイケルは、7才よりショー・ビジネスの世界に生き、自宅周辺の散歩は勿論、ツアーの先々での買い物も出来ない程の人気でした。高級レストランなどにも滅多に行けず、まさに部屋に幽閉されたような日々を過ごしていたのです。「ボクにはね。正面玄関やロビーを見たことがないホテルがたくさんあるんだよ。いつも裏口から入るわけだからね。金魚鉢で大きくなったように感じることもあるよ。」
マイケル・ジャクソン・ルック3 ナポレオン・スタイル
- ネイビーブルーのナポレオン・ジャケット
- 赤シャツ
- ブルージーンズ
ムーンウォークの誕生
「ビリー・ジーン」 1983年1月リリース。全米第1位/全英第1位
マイケル・ジャクソン伝説が本格化することになった“史上最も売れた”アルバム『スリラー』(プロデューサーはマイケルとクインシー・ジョーンズ)からの第二弾シングル(第一弾はポール・マッカートニーと競演した「ガール・イズ・マイン」全米No.2ヒット)。作詞・作曲はマイケル自身です。
1983年3月25日に『モータウン25周年記念コンサート』(ちなみにこの曲はモータウンから発売されていない。モータウンからすれば、マイケルが自分の一番歌いたい歌で出演してくれるだけで良かったのだ)において、マイケルはこの曲を歌いながらムーンウォークを初披露します(マイケルはこの時のパフォーマンスに失望していた。なぜならつま先立ちを失敗したからです)。
タップダンスで使われていたムーンウォークを史上初めてダンスに取り入れた人は、シャラマーのジェフリー・ダニエル(後にマイケル・ジャクソンの「バッド」「スムーズ・クリミナル」の振り付けを担当)が1982年に「ナイト・トゥ・リメンバー」で披露したものでした。
マイケルは、1974年に『ソウル・トレイン』の中で、ムーンウォークを行っていた2人組がいたことを、ジェフリーのダンスを見て、思い出し、この2人を見つけ出し、ムーンウォークを教わりました。そして、初披露することになったのです。
一方、この曲でマイケルとクインシー・ジョーンズは一時大喧嘩をすることになります。29秒のイントロに対して、「ダラダラしていて良くないからカットすべきだ」と主張するクインシーに対して、「大丈夫だよ。ここはボクが踊るパートだからね」と言ってマイケルは決して譲りませんでした。
マイケルはこの曲においては、全体的にミニマルなバックの演奏を指示しました。「ボクのパフォーマンスが浮き立つようにしたいから」。この曲で初めて、以後マイケルのトレードマークの一つとなるジェリーカールを披露することになります。そして、ビデオクリップの黒のレザースーツとピンクシャツとレッドボウタイ姿は、全米の子供たちにコピーされるようになりました。
ローリングストーン誌において、「新しいファンクの形」とまで絶賛されました。この曲により翌年の1984年のグラミー賞を8部門獲得したうちの最優秀R&Bソング賞と最優秀男性R&Bヴォーカル賞を獲得しました。しかし、この年の1月、マイケルにとって、人生を左右する不幸に見舞われることになります。ペプシコーラのCM撮影中におきた頭皮の大やけど事件です。彼は悲劇のプリンスの道も同時に歩かなければならなくなったのです。
マイケル・ジャクソン・ルック4 ムーンウォーク・スタイル
- ブラック・スパンコール・ジャケット(後日、サミー・デイビスJr.にプレゼントされた)
- シルバーラインストーンシャツとソックス
- ブラックパンツ
- レザーのペニー・ローファー
- 片方だけの白のラインストーン・グローブ。自作で1,619個のラインストーンで覆われたもの。この時から片手にクリスタル・グローブは、マイケルのアイコン・スタイルとなる
- 黒のフェドラハット