マドンナ略歴
- 1958年8月16日 ミシガン州ベイシティで生まれる(6人兄妹の3番目であり長女)。
- 1977年 ミシガン大学を中退し、35ドルを片手に、グレイハウンドバスでニューヨークへ。
- 1982年 「エヴリバディ」で歌手デビューを果たす。
- 1983年 デビュー・アルバム『バーニング・アップ』を発売。全米で500万枚、全世界で1000万枚を売り上げる。
5thアルバム『エロティカ』(1992年10月リリース)
カトーマスクを装着したセクシャル・アンドロイド
「エロティカ」 1992年9月リリース。全米3位、全英3位
マドンナの第4形態が生まれた瞬間。マヴェリック・レコードを設立し、自分自身のアンドロギュヌス性を徹底的に追求する旅にマドンナは出るのでした。それはまさに全裸でヒッチハイクするようなスタイルでした。マドンナの第4形態それはセクシャル・アンドロイドとして、セックスを音楽するマシーンへの変貌なのでした。
ミュージック・ビデオと呼ぶよりも、ファビアン・バロン×スティーヴン・マイゼルが監督したアートフィルムである本作。つまりそこに溢れる感性とは何かを創造する時に、走馬灯のように現れるイメージを紡ぎ合わせたものです。アルバム『エロティカ』(1992年10月リリース)と同時発売されたマドンナ×マイゼルによる写真集(コーヒーテーブルブック)「SEX」(撮影に2週間かける)。自分が本当にしたいことをしてみたという点においては、歴史に残る作品です。MTVに放送禁止にされたこの作品によって、音楽と映像の可能性はさらに飛躍したのでした。
「愛しているから叩くのよ」からはじまるSMの真髄。1930年代のSMの女王様ルックに身を包んだマドンナのその姿。喜びと痛みの境界線。どんなに偉大であっても性の凡庸さを無視して生きることは出来ないことの最も分かりやすい例が、SEXであり、それがポルノになるかアートになるかの境界線にSMが存在するのです。行為を行っているのか?行為を連想させるかの違いであり、実際のところは大して違わないという真実。
私がどうしても確信してしまうことがひとつあります。それは、マドンナは椅子に座った男性の上に背面騎乗位でまたがりながら挿入を見せつけながら歌うようなことをしたかったのではないかということです。
セックスという行為の中で、愛を歌うことはポルノなのだろうか?ただの猥褻なのだろうか?しかし、セックスなしの愛は愛なのだろうか?セックスという極めて凡庸さがちらつく代物を、最高峰の芸術に変えてみたい。この気持ちがマドンナが行き着いた終着駅だったのではないでしょうか?だから彼女の動きは人間的であるよりも、アンドロイド的なのです。セックスで人間性を吹き込まれるアンドロイドがそこにいます。まさにこの曲こそ、そんなマドンナの新たな姿勢を体現した曲なのです。ただエクスタシーを求めるEDMのようなノリとは真逆の、なかなかイカせてくれないセックスのような曲調で、それがまさに絶妙な快感=ジャズのグルーヴィー感を生み出してくれるのです。
(『SEX』で)やったことには誇りを持ってるわ。だってあたしは前例を作って、女性がもっと表現豊かになる自由を与えたのよ。パイオニアになった自分を誇りに思うわ。
マドンナ
そして、終わりはこの<マイアミ・ヌード・ヒッチハイク>シーンに集約されるのです。それにしてもなんともアンドロギュヌスなカラダでしょうか。肩、腹筋と、太腿の筋肉に頬ずりしたくなるのは私だけでしょうか?この曲でマドンナは、アイドルからアーティストになったのでした。そして、歌手はただ歌うだけの存在ではないことを示したのでした。
PVにはイザベラ・ロッセリーニとナオミ・キャンベル(1991年、マイケル・ジャクソンの「イン・ザ・クローゼット」のPVに出演)がカメオ出演しています。ニューヨークのホテル・チェルシーで撮影され、MTVにおいては、唯一3回だけ放映され放送禁止になりました。そして、1992年9月24日。ジャン=ポール・ゴルチエ・HIVチャリティ・ファッション・ショーにトップレスで出演したのでした。
マドンナ・スタイル18 1930年代女王様スタイル
- 外付けのカラーとカフス
- ブラック・シースルーボディースーツ
- ブラックボンデージスカート
- カトーマスク。ローンレンジャー・マスクとも呼ぶ
- 金歯
『エロティカ』ライブ・パフォーマンス
ガーリー・ショー・ツアー、1993年、シドニー・オペラハウス。
ガーリー・ショー・ツアー、1993年。
コンフェッションズ・ツアー、2006年。