シンディ・ローパー生誕からデビュー前夜(1953~1979)
負け犬人生を真っすぐに歩いてきた人。
17歳で家を出た。歯ブラシと下着の替えとリンゴひとつ、それとヨーコ・オノの本『グレープフルーツ』を入れた紙袋を持って。私にとって『グレープフルーツ』はアートを通して人生を眺めるための窓になっていた。
シンディ・ローパー
シンディ・ローパーという人の最大の魅力は、自伝の中のこの一言に尽きます。「(もし空から鳥の)糞が落ちてくるとき、かならずそこにいるのが私だった」。9歳から髪をカラーリングし、奇抜なファッションで、すっかりクラスでも浮いていたというシンディ。「私の人生はどこに行ってもアウトサイダー(よそ者)であり、エイリアンのように思われた」という彼女。つまり彼女の魅力は、この劣等感にあるのです。
私は「時間管理がうまくできたためしがなかったから・・・私はたんにどこにも到達できない人間だった」。そんな思いを心に秘めつつ10代から20代を過ごしてきた一人の女性が、30代になって花開くのです。
シンディは、ニューヨークのブルックリン区に生まれたのですが、5歳の時に両親が離婚し、クイーンズ区の下町アストリアに引越しし、中流より少し下のシングルマザーの環境で育ちました。12歳のとき、姉から借りたギターを弾き始めました。4つの学校を転校した挙句卒業し、17歳で〝もっと広い世界を求めて〟愛犬のスパークルと家出をします。そして、大学に入学するのですが、「大学には一年と二か月いた。ほんとに必死に頑張ったもののまたしても落第してしまい、私にはそれが耐えられなかった」と回想するように、高校時代と同じく落第を繰り返し、ドロップアウトし、「私が生まれて初めてキスした男は、ドレッグで死んだわ」と、ドラッグ中毒になりながらも、中毒を克服し、様々なバイトをしながらシンガーとしての下積み生活を過ごしていくようになりました。
ジョンソン州立大学で美術の奨学金で授業を受けながら、クラスのひとつでヌード・モデルとして働いた。・・・そして、私は自分の身体でもアートしていた。体をひねって画面いっぱいに走るような線を作ったり、自分で描きたいと思うような形のポーズを取ったりした。そして、そんなポーズで長い時間動かないでいることができた。
シンディ・ローパー
いいじゃない?他のありとあらゆる仕事をやってきたんだから。で、私はトップレスのダンサーになった。・・・赤い髪をしていたから私のステージ・ネームはキャロットといった。
シンディ・ローパー
思い出すのはナイアックのクラブで踊っていた時のこと。そこの人たちは私を気に入って、ある日経営者が自分のオフィスに私を呼ぶとこう言った。「よく聞くんだ。君がクラブで歌っているのはしっているけど、ひとつ言わせてくれ。君はこれをやるために生まれてきたんだ。自分じゃないものになろうとすることはできないよ。君はダンスが素晴らしくてすごく才能があるから、その得意なことだけに焦点を合わせるべきだ」。彼の言った何もかもが正反対のことに気づかせてくれたー私はシンガーなんだ、って。
シンディ・ローパー
何をしても上手くいかないシンディは、ストリッパーも経験しながら、場末のバーやクラブで歌うアマチュア・シンガーとして約10年間キャリアを積み上げていったのでした。
ブルー・エンジェル時代(1979-1980)
そして、27歳にして遂にプロデビューを果たす。
高校時代に私はジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、ジョニ・ミッチェル、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン、ザ・チェンバース・ブラザーズ、フォー・トップス、クリームを聞いた。モータウンは王様で、もちろん、ビートルズ、ビートルズ、ビートルズ!もっと大きくなると、『ホワイト・アルバム』が出て、私は自分の部屋の壁に彼らひとりひとりの写真を貼った。
シンディ・ローパー
シンディは、1978年に、4人の男性と共に、ブルー・エンジェルというロカビリー・バンドを結成しました。このバンド名はマレーネ・ディートリッヒの映画『嘆きの天使(原題:ブルー・エンジェル)』にちなんでつけたものです。
私がいちばん最初にやったんだって言ってるわけじゃないけど、自分の気に入ったことはなんだってやってただけ。ブルー・エンジェルは一度あるレビューに「彼女の服のせいで歌声さえ耳に入らないが」と書かれたことがあるけど、気にしなかった。ステージではなんだろうと着たいものを着た。だって、「うわあ、すごい。なんて声だ!」って言ってくれる人だってちゃんといたんだから。もっとうまく踊れるだろうからという理由で、ときにはステージで靴を脱いで裸足で踊った(おかげで今の私の足はひどいことになっているから、やめておけばよかったのかもしれないけど)。
シンディ・ローパー
ブルー・エンジェルのアルバム・ジャケットではいてるようなサイクリングパンツにハートのついたボビー・ソックスを身につけていた。私はプリントやチェック、格子などのいろんな柄を混ぜ合わせるのが好きだったんだけど、どうしたわけかそれは多くの人々をイライラさせるみたいだった。いつも格子柄と豹柄はすごく相性がいいと思っていたんだけど、ずっとあとの90年代になってヴィヴィアン・ウエストウッドがやるまでは受け入れられなかったわね。
シンディ・ローパー
そしてもちろん、いつも自分の髪をつかって新しいことにトライするのが好きだった。たとえばブルー・エンジェル在籍時、私の髪は前髪がブロンドで他は茶色で、それをねじっていろんなポニーテールなんかにしていた。思いついたものを自分で形にしたの。
シンディ・ローパー
シンディ・ローパーの原型がすでにそこに存在した。
ブルー・エンジェルがピーター・フランプトンの前座をやったとき、ステージのためにちっちゃなピンクの50年代っぽい水着とボタンダウンの緑色のドレスを買った。ステージを降りて衣装替えをすることはできなかったーその場でやらなきゃならなかったーから、ショーの間にドレスを脱いで水着で踊り回った。だってね、デボラ・ハリーはブロンディでそういうことやってたんだから。そしてスタイルってことに関して言えば、彼女は水着とスーツのジャケットを併せていて、実にセクシーで素晴らしかった。ステージでゴミ袋を被っていたってカッコ良く見せちゃうんだもんね!
シンディ・ローパー
まさに、どこにも行き着かないデモばかり作ってる私の人生そのものだった。私達は頑張り続けていたけれど、何も起こらないかのように思えた。
シンディ・ローパー
シンディ・ローパー・スタイル3 レオパルド・パンツ
- 黒のカットソー
- ハイウエストのタイトなレオパルド・サブリナパンツ
1981年の終わりのこと、当時は誰もが黒の細いジーンズを履いていて、まさに制服そのものだった。それがクールな人と、あんまりクールじゃない人を区別する基準だった。
シンディ・ローパー
街に引っ越してからトラッシュ・アンド・ヴォードヴィルの店に行って気に入った服を買った。私達はマンハッタンのクラブでプレイしていたから、もうクイーンズ出身の人間みたいな格好はしたくなかったのね。ほんとにキュートな黒と白のヴィンテージものブラウスに黒のベスト、ちょっとアリババっぽいんだけど、そこまで渋くない柄のひだ付きパンツを買った。それから後に私が働くことになるヴィンテージ服飾店のスクリーミング・ミミに行ってヴィンテージ服を試着し、それを着てどんなふうにパフォーマンスできるか、ステージ映えはどうか見るためにくるくる回ったりしてみた。
シンディ・ローパー
1980年にブルー・エンジェルのファースト・アルバムを発表し、プロ・デビューしたシンディ・ローパーは、悪徳マネージャーとのトラブルを解消する為、自己破産の道を選び、バンドも解散することになりました。またもや負け犬街道まっしぐらなシンディは、めげずに「結局2,3年スクリーミング・ミミで働いた。お客さんが入ってくるとスタイリングを手伝うんだけど、それがすごく面白かった」「日本人向けのピアノ・バー〝MIHO〟のホステスとして働いた。私の18番は「Wasurenaiwa」だった。今もこの店の、このほんとに親切な人たちを思い出すとほんとに心が温まる。私は良いホステスになろうと、みんなを笑わせてやろうと一生懸命頑張った」というう風に前向きに前進したのでした。
そして、前向きな彼女に遂にチャンスは到来したのでした。
エリザベス・テイラーが表紙の『ライフ』誌にゴーゴーズやプリテンダーズのようなバンドが取り上げられた『ガール・ロッカーズ』という特集があって、たまたま私が出ていたのね。私は赤いサイクリングパンツ、赤いハイヒールにボビーソックス、ジョニー・エンジェルと書いてある袖無しの可愛いシャツを着ていた。美容院にいて、髪にオレンジとピンクのカーラーをまき、カール・ユングの『未知の自己』を読んでいた。(シンディが働いていた日本人向けピアノ・バーの)ママさんはその写真が大好きだった。
シンディ・ローパー