サブリナ、永遠のアンドロギュヌス
オードリー・ヘプバーンはハリウッド・デビュー作の『ローマの休日』(1953)でアカデミー主演女優賞(1954年)を受賞しました。そして、その次の作品として製作されたのが『麗しのサブリナ』でした。それは、オードリー自身がブロードウェイでマーガレット・サラヴァンとジョゼフ・コットン主演の『サブリナ・フェア』の舞台を観て、映画化を切望したのでした。
この作品の撮影当時(1953年9月29日から12月5日)、彼女はまだアカデミー賞を受賞していませんでした。
しかし、この作品に関わる他の3人は、ハリウッド映画界において当時最も脂が乗っていた3人でした。1945年に『失われた週末』でアカデミー監督賞とアカデミー脚色賞を受賞し、1950年に『サンセット大通り』でアカデミー脚本賞を受賞している監督のビリー・ワイルダー(1906-2002)と、1952年 に『アフリカの女王』でアカデミー主演男優賞を受賞しているハンフリー・ボガート(1899-1957)。そして、1954年に『第十七捕虜収容所』(ビリー・ワイルダー監督)でアカデミー主演男優賞をオードリーと共に受賞することになるウィリアム・ホールデン(1918-1981)という凄いメンバーでした。
大富豪の運転手の娘が、2年間のパリ留学で、洗練されたレディになり帰国するというストーリーは、オードリー・ヘプバーンに再び変身を要求することになりました(アン王女からアーニャのように)。そして、ロングヘアからショートカットになったオードリーは、アン王女のプリンセスのイメージから、ヴォーグから抜け出てきたかのようなファッション・モデルのイメージへと見事に転生を遂げたのでした。
パリから帰ってきた美女。彼女の洗練された美しさは、明らかに今までのハリウッドスターには存在しない美しさでした。
その大きな瞳に見つめられると、男性も女性もドギマギしてしまいそうな不思議な魅力があります。美しい少年がメイクをして、ショートパンツでカモシカのような長い足を曝け出しているような背徳感さえも感じさせます。そうです彼女こそ、ハリウッドに誕生した、はじめての巴里のアメリカ人だったのでした。
〝膨らんだ胸の魅力〟を過去のものにしたオードリー
あらゆる芸術は絶えず音楽の状態に憧れる。
ガブリエーレ・ダヌンツィオ
ファッション業界において、『麗しのサブリナ』はもっとも重要な映画のひとつです。それはオードリー・ヘプバーンというファッションモデル体型の女性が、この作品からはじめて女性にとっての憧れとなったからです。このことが、ファション業界と映画界の距離を縮め、ファッションモデルの多くが、映画界に進出するきっかけを生み出したのでした。
そして、オートクチュール中心だったファッションが、60年代の終わりからプレタポルテへとシフトチェンジし、70年代から80年代にかけて世界的な規模でファッションの大衆化が発展していく流れが生み出されてゆきます。
オードリーは、そんなファッション文化の流れを15年以上も前に、ジバンシィのオートクチュールのドレスを着る一方で、イーディス・ヘッドがデザインしたサブリナパンツ等のカジュアル・ファッションを着こなすことによって、先取りしていたのでした。
映画とファッションが強く結びつき、そこにロマンティックなラ・ヴィ・アン・ローズ(ばら色の人生)が流れることによって、サブリナという名前の響きは、ハイセンスとカジュアル・ファッション(=ファストファッション)の象徴となったのでした。
パリ モードとオードリーは切り離せない。
別に謙遜しているわけではありません。実際に私は監督たちによって作られた人間なのです。わたしはローレンス・オリヴィエではないし、天才でもありません。本来は内気な人間で、人前でなにかをすることが苦手なんです。私の監督たちの共通点は、私を安心させてくれたこと、愛されていると思わせてくれたことでした。彼らをとても頼りにしています。彼らはもとはといえばダンサーにすぎない私から、女優として観客を楽しませる要素を引き出してくれたのです。
オードリー・ヘプバーン
あらゆるファッション雑誌において、最も登場回数が多い人。それはオードリー・ヘプバーンでしょう。彼女の名前を出すことによって、たとえそれがファストファッションであろうとも、非常に価値あるものに感じさせてくれます。それだけ、オードリーは、現代人の心にもすんなりと響く、〝不滅のファッション性〟を保っているのです。
『麗しのサブリナ』が、女性の永遠の憧れの作品である理由は、「パリモードに身を包み、帰国した女性が、失恋相手の男性を虜にしてしまう」所にあります。
つまりは、ひとつの映画の中で、マクドナルドとミシュランに掲載される店のそれぞれの魅力を伝えるかのように、ジバンシィというラグジュアリー・ファッションとサブリナパンツというファストファッションが生み出す魔力を本作のオードリーは伝えてくれているのです。
サブリナのメイクについて
もし、私に美の秘密があるならば、それで一財産作ることが出来たでしょう。ただ、健康と、十分な睡眠と、ストレスのない環境。そして、エスティ・ローダーが、私の美の創造を助けてくれました。
オードリー・ヘプバーン
ウォーリー・ウエストモア(1906-1973)は、ハリウッドでも有数のスター・メイクアップアーティストでした。びっくりすることに6人兄弟全員が有名なメイクアップアーティストでした。
1931年の『ジキル博士とハイド氏』のメイクで注目され、オードリーとは、『ローマの休日』(1953)『パリの恋人』(1957)『ティファニーで朝食を』(1961)でタッグを組みました。他にも、『陽のあたる場所』(1951)でエリザベス・テイラー、『裏窓』(1954)『泥棒成金』(1955)でグレース・ケリー、『十戒』(1956)でアン・バクスター、『裸足で散歩』(1967)でジェーン・フォンダのメイクアップを担当しました。
ウォーリーは、『ローマの休日』のアン王女のアイブロウよりも、サブリナのアイブロウを濃くしました。そして、観客の視線を眉と目に集中させるために、アイラインも濃くしました。それは同時に、オードリーの角ばった頬を和らげる効果を生みました。
更に淡い色のリップを厚めに塗り、ぷくっとした唇で、シャープな逆三角形のラインを生み出しました。(眉+目から唇への)逆三角形を強調し、四角形の輪郭を消失させたのでした。
オードリーとエスティ・ローダー
ところで、オードリーは1956年からエスティ・ローダーのリニュートリィブ・シリーズを愛用していました。彼女は、煙草を手から離せないほどのヘビースモーカーだったので、肌の手入れには特に神経を割いていたと言われています。1992年には、エスティ・ローダー(1906-2004)に「私の一日はあなたと始まって、あなたと終わるの」という感謝の手紙を送るほどでした。
私には宝石は似合いません。そして、化粧が濃いとわたしの顔は仮面のように見えてしまいます。わたしが毛皮を着て宝石をつけたら、それこそ手回しオルガンに描かれた絵の人物みたいになってしまいます。
オードリー・ヘプバーン
『リボンの騎士』のサファイアの原型
『ローマの休日』のヘップバーンカットが更に進化し、ショートカットをサイドに分け、三日月を作っています。手塚治虫の『リボンの騎士』のサファイアのようなスタイルで、アンドロギュヌス的です。
ちなみに『リボンの騎士』は少女クラブ(1953年1月号〜1956年1月号)に連載されていました。つまりサブリナを見て、手塚治虫がサファイアを創造した訳ではありません(しかし、連載中にオードリーから受けた影響は計り知れないでしょう)。宝塚歌劇団でスターだった淡島千景様(1924-2012)がモデルでした。
作品データ
作品名:麗しのサブリナ Sabrina (1954)
監督:ビリー・ワイルダー
衣装:イーディス・ヘッド/ユベール・ド・ジバンシィ
出演者:オードリー・ヘプバーン/ハンフリー・ボガート/ウィリアム・ホールデン