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【トミー ヒルフィガー】トミー コロン(アルベルト・モリヤス)

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©TOMMY HILFIGER
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トミー コロン

原名:Tommy
種類:オーデ・コロン
ブランド:トミー・ヒルフィガー
調香師:アルベルト・モリヤス、アニー・ブザンティアン
発表年:1995年
対象性別:男性
価格:日本未発売

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トミー・ヒルフィガー初の香り

©TOMMY HILFIGER

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トミー・ヒルフィガーはデザイナーとして一流だとは思えない。彼がやっているのは、私のコピーばかりだ。何の新しさもない。

ラルフ・ローレン(1997年4月)

1990年代、ラルフ・ローレントミー・ヒルフィガーはアメリカのアパレル市場において壮絶なる死闘を繰り広げていました。1968年に創業され、アメリカにアパレル帝国を築いていたラルフ・ローレンに対し、1985年に創業されたばかりのトミー・ヒルフィガーは、ことごとくラルフのビジネス戦略を模倣し(ポロの元幹部を大量に引き抜く)、凄まじい勢いで新たなるアパレル帝国を築き上げようとしていたのでした。

ラルフ・ローレンが好んで使用していたアメリカ国旗をトミー・ヒルフィガーも、ブランディングのために使用したことが、この死闘のはじまりだったのですが、最終的には、模倣者だったトミーを、ラルフが模倣するという奇妙な展開にもつれ込んでいくのでいた。

ラルフ・ローレンの取るに足らない模倣者だったトミー・ヒルフィガーが実行した革命的なマーケティング戦略。それはヒップホップ・カルチャーをカジュアル・ファッションに取り込み、有色人種の顧客を獲得するという、21世紀のファッションの世界に最も影響を与えることになる戦略を編み出したのでした。

つまりは、スラム街の若者からビバリーヒルズの富裕層の子供たちまですべての若者がヒップホップ・カルチャーを通じて、トミー・ヒルフィガーを愛するようにしたのでした。

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シャネルを無視したヒップホップ・カルチャー

©CHANEL

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ヒップホップ・カルチャーをハイファッションの中に融合させようとしたデザイナーのトップランナーはアイザック・ミズラヒでした。しかし、ホームボーイ・シックと呼ばれるその流れを明らかなものにしたのは、シャネルのカール・ラガーフェルドからでした。

シャネルの1991年秋冬コレクションにおいて、(彼の187回のランウェイショーの中で最も過小評価され)21世紀のファッションシーンに最大級の影響を与えることになった元祖ラグジュアリー・ストリートの萌芽が生み出されたのでした。

このコレクションで、はじめてシャネルのファッションモデルが、ジーンズを履き、ベースボールキャップをかぶり、神聖なるメゾンのアイコンであるカメリアをニップルカバーとして使用し、デニム素材のシャネルバッグまで誕生させたのでした。まさにこれぞ、カールの独壇場とも言える「オーバー ザ トップ」のスタイリングの妙でした。

しかし、この画期的なハイファッションの創造は、肝心のヒップホップ・カルチャーの住人たちから、自分たちのカルチャーに対する冒涜以外の何物でもないと総スカンを食らい、すぐにホームボーイ・シックの流れは鎮火していったのでした。

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トミー・ヒルフィガー帝国の興隆(1994年~00年代半ば)


それまで黒人の若者が白人の消費者をリードするという現象は存在しませんでした。しかし、トミー・ヒルフィガーがその禁断の扉を開いたのでした(正確には彼と当時のクリエイティブ・ディレクターであるロイド・ボストン)。

1994年3月19日の『サタデー・ナイト・ライブ』で、スヌープ・ドッグが、トミー・ヒルフィガーのラグビーシャツを着てパフォーマンスした瞬間、翌週、アメリカ中の全てのトミーのラグビーシャツは完売し、連鎖反応のように、(トミーの弟アンディによってラッパーたちにばら撒かれていた)トミーの服をラッパーたちが着用するようになったのでした。

以後、トミー・ヒルフィガーは、プレッピーとストリートを融合したカジュアル・ファッション・ブランドとして、アメリカのあらゆる人種の若者から支持されるブランドになるのでした。特に、アリーヤ(1979-2001)が着用していたチューブトップは、一大トレンド・アイテムとなりました。

そして、「彼は低価格帯のラルフ・ローレンを狙っているだけで、それで有名になっただけだ。若い客がトミーを買うのは、ポロを買う経済力がないからだ」と豪語していた、ラルフ・ローレンが、95年より、ポロスポーツで、トミーを模倣することにより逆襲することになるのでした。

ここに、カルバン・クラインのジーンズに挑むラルフとトミーによる三つ巴のジーンズ戦争の幕は切って落とされるのでした。




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90年代のアメリカの若者の香り

ミック・ジャガーの息子ジェームズ・ジャガー(白のタンクトップ)とキース・リチャーズの娘アレクサンドラ・リチャーズ。©TOMMY HILFIGER

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トミー・ヒルフィガーの初フレグランスは、ラルフ・ローレンと繰り広げられたアメリカン・アパレル戦争の最中の1995年に発売されました。

すべての香料がアメリカ産であることにこだわったこの香りは、香りを通してアメリカ横断をイメージする香りでした。ターゲットを10代の青年に定めて、アラミスが製作し、アルベルト・モリヤスアニー・ブザンティアンにより調香されました。

トミー史上初の香りは、ワイルドベルガモット(ネバダ産)とグレープフルーツ(フロリダ産)の爽快感溢れるシトラスシャワーに、ラベンダー、ブルーグラス(芝生)といったハーバルグリーンな風が溶け込んでゆき、スパークリングするようにしてはじまります。

香料に〝雨=レイン〟と書かれてあるように、オゾンノートにミントが混じりあったものを強く感じとることが出来ます。そして、それは雨水で洗われたソーピィーな感覚も生み出しています。

すぐにシナモンの効いたアップルパイに(酸味のある)クランベリーとサボテンの花の芳香が重なり、ほのかなローズが香り全体を包み込んでゆきます。

オーデコロンなので持続力はほとんどなく、すぐにやってくるドライダウンは、今までの爽やかさを一変するようなイソEスーパーとアンバーによる温かい余韻で包み込んでくれます。

まさにボトルの中の90年代のアメリカン・グラフィティと形容したくなる香りです。1995年から2000年代半ばにかけて、アメリカの中高生のマストハブ・フレグランスの地位に君臨し、2000年代には、日本においてBボーイ御用達フレグランスとなったのでした。

ルカ・トゥリンは『世界香水ガイド』で、「トミー コロン」を「ウッディ・カルダモン」と呼び、「1995年に売り出された頃、このヒルフィガーの初めてのフレグランスは革新的だった。それ以来、やたらと模倣されてきた。まずはじめに、エスプレッソを飲んだ直後にカルダモンシードを噛んだ人の息のような香りがする。」

「ふしぎなことに、どちらも発表されている原材料リストには載っていない。その代わりに、たいへん笑えるアメリカ風のものがたくさん乗っている。「アイオワのラベンダー」に「ブルーグラス」(牧草)、「大西洋の流木」。「バンジョー・アブソリュート」だとか「グランドティートン山脈ジュース」を載せ忘れたとは驚きだ。」

「トミーはドライダウンで、暗めでとげとげしいムスクとウッディシトラスの香りになる。素朴でシンプルな香りで、気が滅入るようなスポーツフレグランスのスタイルにもかかわらず、この種の香水の中ではいちばんましだ。」と3つ星(5段階評価)の評価をつけています。

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香水データ

香水名:トミー コロン
原名:Tommy
種類:オーデ・コロン
ブランド:トミー・ヒルフィガー
調香師:アルベルト・モリヤス、アニー・ブザンティアン
発表年:1995年
対象性別:男性
価格:日本未発売


トップノート:ミント、ラベンダー、雨、フロリダ産グレープフルーツ、ベルガモット、ケンタッキー産ブルーグラス
ミドルノート:クランベリー、イエローローズ、グラニースミス・アップル(アップルパイ)
ラストノート:ブルー・スプルース、アンバー、サボテン、ワイオミング・コットン・フラワー、バーモント・レッドメープル