「彼女たちはまさしく詩だ」ポーリン・ケイル
過去の階層性の家族の価値観にすがりついて、うやうやしいおじぎと、気取った顔のそむけかたをする伏し目がちな雪子・・・しかし、われわれは雪子のしとやかさの中にお色気を見てとる。ふたりの姉の場合も、やはりそこが魅力である。性の自由を謳歌している元気のいいモダンガールの妙子が、いちばんコケティッシュでなく、お色気がないが、ほかの姉妹といっしょにキモノ姿でいるときの彼女は愛らしい。姉妹四人ともが美しく、完璧な肌色で、彼女たちの動きは、自分がビジュアルな詩であることをつねに自覚しているようだ。(そう、彼女たちはまさしく詩だ。)
『映画辛口案内』 ポーリン・ケイル 朝倉久志訳
この評論を読んでいると、まさしく今の日本の女性に失われつつある挙動が、この映画の中にはあります。その動きの詩情を知らずに、日本人女性が、キモノの美を放棄してしまう姿勢に、もったいなさを感じます。日本人はキモノを面倒臭いと言い、欧米人はキモノが様になる日本人が羨ましいと言います。
この感覚の違いは、文化と言うものに対する教養の違いと、ファッションというものに対する深度の違いだと私は思います。キモノを着ることがなくなったのは、面倒だということよりも、それを着る場所がなくなったからです。例えば、この喩えを出すと分かりやすいと思います。
ある密室で、会議が開かれています。議題は、「プチプラ商品をより売る戦略」です。そこで、提案されたのが、フォーマルな環境においてもスニーカーを推奨していくという風潮を作ることと、ラグジュアリーブランドも、この波に引き釣り込んでやろう(コラボなどの餌をぶら下げて)という事でした。「流行」と「楽が出来る」というキーワードによって、ヒールの高いパンプスよりも、気安いスニーカーが着用されるようになりました。
その結果、スニーカーに合うプチプラの服が売れるようになります。一方、ラグジュアリースニーカーを販売する流れにのっかかってしまったラグジュアリーブランドは、ドレスなどの、女性の高級服がほとんど売れなくなりました。この流れこそ、着物が辿って来た道そのものなのです。人は、「楽を覚え」ます。さらにそれ以上に、その服を着る場所を失うことにより、もうその服は売れなくなるということなのです。キモノは京都の観光地巡り以外において着る価値をほぼ失いました。つまりは、日本人女性が詩を奏でる空間が、現在の日本においてはほとんど存在しなくなったと言うことなのです。
雪子(吉永小百合)ルック1 お花見ルック
水色に薄いワラビ柄。少し拍子の抜けた文様。同系色の帯。清楚なイメージ。小振袖。
妙子(古手川祐子)ルック1 お花見ルック
オレンジ色にバタフライ柄。黒地に花柄の帯。リボン。小振袖。
圧倒的な岸恵子様と佐久間良子様の掛け合い
芸者が京紅をつけたら、唇を唾でぬらさんように、いつも気をつけてるそうや。物を食べるときかて、唇にさわらんように、ハシで口の真ん中へ持っていかんならんよってに、舞妓のじぶんから高野豆腐で食べ方をけいこするねん。なんでかいうたら、高野豆腐は一番汁気を吸うよってに、あれで練習して、口紅を落とさんようになったらええのんやて 貞之助(石坂浩二)
「こだわってはる」「こだわってまへん」岸恵子様と佐久間良子様の姉妹の口論が、2人の結びつきの深さを示す瞬間。その前に岸様が、到着し、羽織を脱ぐときに、さりげなく、姉の衿を直す佐久間様の仕草がスパイスとして効いてきます。
ここで私たちは、日本の女優様の持つ素晴らしい間を知ることになります。日本人女性に敏速性は、似合わない。ヴィクトリアズ・シークレットのランウェイのようなことを日本人がした所で、そこで示しうる美は、日本人女性には、居心地の悪いものであり、そうありたいと願うよりも、そうでないところに日本人女性の美学はあると認識するべきだと考えさせられます。
日本人女性が、欧米人の顔を目指し、整形手術を施したところで、結局、問われるべきことは、何をして生きているのか?何のために?日本の美とは何か?創り上げた顔の造形が、なぜキモノを着ると、あざとく見えるのか?日本の美とは、欧米の美とは全く違う概念に基づいているという真実。そこに美意識を定めた所で、猫が犬でありたいと望んでいるようなものだということなのです。
幸子(佐久間良子)ルック1 お花見ルック
鮮やかな光沢のある薄青色の羽織。水色の訪問着。赤×金ベースのマルチカラーの帯。
鶴子(岸恵子)ルック1 お花見ルック
浅蘇芳(あさすおう)色の羽織。古代紫地曇取り光琳垣総絞り訪問着。黒×金の帯。羽織の裏地は、鮮やかな赤。
幸子(佐久間良子)ルック2
薄ピンクと赤の訪問着。香道の源氏香市松模様。赤帯。
雪子(吉永小百合)ルック2 禁断のキス・ルック
白地にレインボービームの小振袖。薄赤帯。