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『ナイアガラ』Vol.1|マリリン・モンローとモンローウォーク

マリリン・モンロー
マリリン・モンロー
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1953年はマリリン・モンローの年でした。そして、モンローウォークの誕生

マリリン・モンロー(1926-1962)は、伝説のハリウッド女優という存在を超えた1つのシンボルです。クラシック・ムービーに興味のない現代人でさえも、その名を聞けば誰でも知っており、その顔が瞬時に浮かびます。もはやマリー・アントワネットに匹敵する歴史的人物であり、〝悲劇性〟を秘めた女性の代名詞にさえなっています。

そんなマリリンがスターダムに駆け上るきっかけとなった記念碑的作品。それが『ナイアガラ』です。この作品におけるマリリンは、まさに典型的な〝ブロンドヘアのファム・ファタール〟を演じています。映画史上かつて存在しなかった〝時代を超越するセックスシンボル〟が誕生した瞬間でした。

それは物語の10分辺りでお披露目されるモンローウォークからはじまります。内股気味に、ヒップラインと胸の谷間を左右にリズミカルに動かし歩く、マリリン・モンローを象徴するムーブメントとなりました。

この歩き方をより効果的に見せるために、マリリンは、衣装担当のドロシー・ジーキンスにある提案をしました。それは片方のパンプスのハイヒールを4分の1インチカットし、ヒールの高さを敢えて不揃いにするということでした。更に当時流行していたダンス〝ツイスト〟のリズムを取り入れ、ヒップラインを強調することにしたのでした。

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マリリン・モンロー誕生前夜:ノーマ・ジーンの物語

ナイアガラの滝を背景にポーズを決めるマリリン・モンロー。

激しい風に吹かれながら、あなたにはどうして孤独がつきまとうのでしょうか?知らず知らずのうちにハリウッドがかつて生み出したことのない大変な役柄を演じることになっていました。そして、ノーマ・ジーンはマリリン・モンローとしてスーパースターになりました。その代償が、ありとあらゆる精神的苦痛でした。あなたの死に際してもなお、ハイエナどもは、襲い掛かり、世界中の新聞が、〝マリリンは全裸で発見された〟と書きました。

雨が降っても、あなたはどの傘に入るべきかわからなかった。その時、僕はまだ子供だった。あなたのろうそくはずいぶん前に燃え尽きたけど、あなたの伝説は燃え尽きない。さようならノーマ・ジーン。ハリウッドのごますり屋たちがあなたを取り囲んでいても、あなたは気品を失わなかった。さようならノーマ・ジーン。映画館の22列目の席に座った僕がいます。あなたは、マリリン・モンローと呼ばれるセックスシンボル以上の存在でした。

「キャンドル・イン・ザ・ウインド」 エルトン・ジョン 1974年。

ノーマ・ジーンは、1926年6月1日に生まれました。両親はすぐに離婚し、母親(1902-1984)は、娘のために大恐慌の最中、ハリウッドに小さな家を買いました。しかし、ローンの返済のための過労等により、精神病になり、9歳の時に、ノーマはロサンゼルスの孤児院に送られました。母親は、以後生涯精神病院で過ごすことになりました。ごく稀にマリリンと会うこともありましたが、精神が崩壊しており、マリリンは、会うたびに悲しくなるばかりでした。

里親が何度も変わり、性的虐待も受け、ノーマはすっかり内向的な少女になってしまいました。1942年、16才になると同時に、21才の工場労働者ジム・ドハティと結婚しました。そして、高校を中退し、航空機部品工場で働くことになりました。

後にマリリンは結婚生活について、こう語っています。「結婚生活は不幸せではなかったけど、幸せでもなかったわ。夫ともほとんど会話がなかったの。私も当時、人と話すことが苦手だったから。そして、死ぬほど退屈な結婚生活だったわ」。

まだ一般人の工場労働者だった頃のノーマ・ジーン。1945年。

1945年、働いていた航空機部品工場に、工場に従事する女性労働者を撮影するためにUS空軍からフォトグラファーがやって来ました。一際目を惹く美人であるノーマは早速撮影され、空軍の機関誌に掲載されたことを機に工場をやめ、モデル活動をすることにしました。

1945年8月、髪の色をブルネットから後にトレードマークとなるブロンドヘアに変えました。まだ名前は、ノーマ・ジーンでしたが、この時を境に、モデルの仕事量が増えました。マリリン・モンロー・プロトタイプの誕生です。

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マリリンはサラブレッドではない。女性は彼女のそこに惚れる。

マリリンが一番最初に登場するシーン。

1946年、5才の時から、女優になりたかったというノーマ・ジーンは、パラマウント映画の面接を受け不合格になりました。めげずに次に20世紀フォックスのスクリーンテストを受け、こちらは合格しました。この時、彼女は、夫との離婚を決意しました(前夫は後にロス市警で刑事になりました。彼は決してスクリーンでマリリンの映画を見なかった)。

そして、1946年8月、マリリン・モンローの名前で20世紀フォックスと契約をしました。しかし、2本の映画に出演し、一年後契約解除され、フリーランスのヌードモデルになりました。間違いなくこの流れは、女優志願の若い美女が堕落する流れでした。しかし、マリリンは、その名前を捨てずに、極貧生活の中、演技の勉強を続けました。一方で、彼女は、映画会社のエグゼクティブと愛人関係を結ぶようになりました。

マリリン・モンローの人気の秘密。それはサラブレッドにはない、女性の魅力を惜しみなく使い伸し上がっていくその泥臭さにあるのでしょう。ヌードになることも、肉体を使い配役を勝ち取ることも辞さない覚悟で彼女は戦っていたのでした。

私の父親は誰か分からない。母親は精神病になっている

私の人生は振り返ることなど何一つ許されない人生なのだと、マリリンは、ただひたすらに前進したのでした。そして、マリリンにとって、何よりも重要なことは、女優になることでした。

やがて、1950年から52年の間に『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』『モンキー・ビジネス』等に出演し、段々と注目されるようになりました。そして、チャンスはやって来たのでした。

当初、ジーン・ピーターズが演じたポリー役は、『イヴの総て』のアン・バクスターの予定でした。しかし、彼女は降板し、すぐに殺される予定だったマリリン・モンローが目立つ設定に変更されたのでした。このようにして『マリリン・モンローの10年』の幕は切って落とされたのでした。

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ローズ・ルーミスのファッション1

ナイトガウン
  • ファートリム・ホワイトナイトガウン
  • 白いスリップ

マリリン・モンローがはじめてカラー映画で世界に紹介された最初の衣装です。

今見ても衝撃的な肉体なのですが、当時なら尚の事でしょう。

ベッドルームのテスト撮影。

ファーがトリムされたホワイトガウンを羽織るマリリン。

プラチナブロンドと透き通るような白い肌と白い白鳥のようなガウンの見事な調和。

このホワイトガウンを身に纏うマリリンが登場した瞬間、白はマリリンのシンボルカラーとなったのだった。

ホワイトナイトガウンの全景がよく分かるスチール写真。

衣装合わせのテストフォト。

衣装合わせのテストフォト。この脚の出し方の不敵さ。

こちらは使用されなかったブラックスリップ。

本物のブラックスリップ。真ん中に真紅のローズの刺繍があります。

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ローズ・ルーミスのファッション2

スカートスーツスタイル
  • 水色のテーラードスーツ。ショールカラー、ストロングショルダー、3つのくるみボタン、絞られたウエストライン、七分丈のスリーブ、スカートは膝下
  • アンクルストラップのホワイト・ハイヒール・サンダル
  • かなりオシャレなスケルトンBOXハンドバッグ

手前のジーン・ピーターズのファッションもかなりおしゃれです。

今でも人気のあるスケルトンBOXハンドバッグ。

そして、モンローウォークがはじめてお披露目されるのです。

コルセットで限界まで絞り上げたウエストライン。

ナイアガラをバックにした写真。このスカートスーツが惜しみなくボディラインを誇示するシルエットであることがよく分かります。

裁判所に用事がある時に、この衣装のままで裁判所を訪問しました。スタイルの良さが際立っています。

このストロングショルダーと七分丈がポイント。

とても素敵な腕時計です(映画の中では付けていないので、マリリンの私物です)。

台本の一部をしっかりと頭に叩き込んでいるマリリン。マリリンは撮影前にとてもナーバスになる人でした。

マリリン・モンローは身長164cmです。

このスカートの丈が素晴らしいのです。見せすぎない官能美です。

衣装を見て「私に入るのかしら?」と言ったマリリン。

衣装合わせのテストフォト。

白黒撮影用の衣装合わせのテストフォト。

ヘアメイクのテストフォト。このイヤリングはピンクドレスで使用されます。

作品データ

作品名:ナイアガラ Niagara (1953)
監督:ヘンリー・ハサウェイ
衣装:ドロシー・ジーキンス
出演者:マリリン・モンロー/ジーン・ピーターズ/ジョゼフ・コットン