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作品データ
作品名:晩春 (1949)
監督:小津安二郎
衣装:鈴木文次郎
出演者:原節子/笠智衆/月丘夢路/杉村春子/三宅邦子
私たちが失ったものが分かる。それは何?
- 叔母さんは、ゲイリー・クーパーに似てるって言うんだけど・・・(のりちゃん)
- じゃあ凄いじゃないの。あんた昔っからクーパー好きじゃないの(あやちゃん)
- でも、あたしはうちに来る電気屋さんに似てると思うの(のりちゃん)
- その電気屋さんはクーパーに似てる?(あやちゃん)
- うん。とてもよく似てるわ(のりちゃん)
- じゃその人とクーパーと似てんじゃないの!何さ!ぶつよ!(あやちゃん)
『晩春』において私が一番お気に入りの会話が上記のものです。この時のあやちゃんの「ぶつよ」の可愛らしさ。小津さんの映画の会話には、他の映画やテレビドラマには存在しない不思議なリズムがあります。それは、蓮實重彦先生が指摘するように、「日常的で単調な反復であるはずの通勤」の中にさえも、リズミカルな要素を持ち込み(最初は2人は並んで立ち、やがて、向かい合って一人は座り、最後に共に座るあの不思議なカット割りの、一連の展開)という風に、「たぐい稀な運動感を賦与する」ことと共通しています。
小津さんの作品は、フランスをはじめとするヨーロッパで特に人気があります。それはなぜか?それは間違いなく、日本文化の中にいるものには、なかなか分からない当たり前に見える要素が、彼らの心を打つということです。そういったものが、日本文化圏外の人たちには、実に魅力的に、時には芸術的に見えるのです。実は日本文化の芸術性とは、伝統品やら歴史的な文化財にだけあるのではなく、日々の暮らしの中に、少なくともこの時代の映画の中には、存在していたということなのだと思います。
『晩春』から見えてくる、日本人の資質とは?
特に日本では、たぶん風土の関係から、外界の模倣と順応が、驚くべき情熱をもってつづけられ、それは今でも続いているのです。たとえば、中身より箱を珍重するとか、内容より形式を重んじるとか、ごく卑近な例では、民主主義より実際に我々が受け入れたのはチョコレートや洋服だった。という風に、今では悪い面ばかり強調されるようですが、その昔仏教が渡来したときも、先ず飛びついたのは経典ではなくて、端麗な仏さまの顔であり、それに付属したもろもろのニュー・ファッションであったことを考えれば、決して、今はじまったことではない。さらに、この極端に唯物的な嗜好が、後に独特の芸術や思想に育ったことを思えば、とかく卑下しがちな我々の欠点なるものが、いかに欠くことの出来ぬ資質であったか、ということについには思い当たりましょう。 『お能の見方』 白洲正子/吉越立雄
のりちゃんルック4
- 白のあて布がされたラウンドカラー付のペールカラーのスカートスーツ。フロントボタン。ウエストにしっかりと絞りが入っている
- フレアスカート
- 運動靴風の白のローヒールパンプス。
あやちゃんルック2
- ギンガムチェックのエプロン
- ボタンダウンの白シャツ。ワイドカラー
- 白のカシミヤのカーディガン
- タックの入ったワイドパンツ。メンズライク。ルーズシルエット、ハイウエスト
あやちゃんルック3
- 白のドット柄半そでタックネックブラウス
- ハイウエスト、黒のひざ丈スカート。
タックの入ったワイドパンツ(ガウチョ風)や、タックネックブラウスは、今に使えるデザインのファッションです。1949年にして洋服で、このスタイリングをする小津さんは恐ろしい人だと私は思います。日本人は形の模倣から、やがて内容の超越を求める資質(電化製品や、車においても)について考えるならば、洋服の究極の形を人類に示す資質を日本人は持ち合わせていると私は思います。
『新しい和服』とは?それは和服の進化系ではなく、日本人の探求精神を反映した、洋服の進化形なのかもしれません。和服という言葉の拘りを捨てたところから、新しい和服は始まるのだと思います。端的に言えば、新しい洋服を日本人が作れば、新しい和服と呼んで良いのではないでしょうか?