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アンリ・ロベール シャネル二代目調香師、N°19を作った男

調香師スーパースター列伝
調香師スーパースター列伝
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アンリ・ロベール

Henri Robert 1899年9月30日、フランス・グラース生まれ。フランソワ・コティに調香の手ほどきをしたシリス社の主任調香師のジョゼフ・ロベールを父に持つ。ジョゼフは、天然の原材料から100%純粋なフレグランスオイルを作る、革命的な溶剤抽出法の開発に大きく貢献した人物でした。

1921年7月にアンリは、父と同じくシリス社で調香師としてエルネスト・ボーアンリ・アルメラスと共に働き、腕を磨いてゆく。そして1923年にドルセーの「ル ダンディ」を調香し、1926年から1933年にかけてドルセーの専属調香師になりました。

1934年にフランソワ・コティの死後、コティの主任調香師になり、1936年に「ミュゲ デ ボワ」を調香する。時は過ぎ、第二次世界大戦が勃発した時、アメリカに移住し、ニューヨークで1940年から1943年まで引き続き、コティの調香師として働きました。

1954年にエルネスト・ボーの後を継ぎ、シャネルの二代目専属調香師として1955年にシャネル初の男性用フレグランスである「プール ムッシュウ」、1971年に「N°19」、1974年に「クリスタル」を調香しました。

そして1978年に三代目をジャック・ポルジュに継承し引退しました。その後1987年7月7日に死去。エルメスの「カレーシュ」やアムアージュの「ゴールド」などの名香を生み出したギ・ロベール(1926-2012)の叔父でもあります。

代表作

ル ダンディ(1923)
ミュゲ デ ボワ(1936)
プール ムッシュウ(1955)
N°19(1971)
クリスタル(1974)

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ガブリエル・シャネルのラスト・フレグランスを作った男

現存する写真が極端に少ないアンリ・ロベール © CHANEL

1921年にエルネスト・ボーが調香したシャネルの「N°5」が、ガブリエル・シャネル(1883-1971)のファースト・フレグランスであるならば、二代目専属調香師であるアンリ・ロベールが1970年に生み出した「N°19」は、ガブリエル・シャネルのラスト・フレグランスでした。

この二代目調香師は、香水業界をゲームチェンジした偉大な父を持つ人でした。まずは彼の父について語らせて頂きましょう。その人の名をジョゼフ・ロベールと申します。

ジョゼフは、ジャスミンやローズなどの原料から香水アブソリュートを抽出する、商業ベースに乗る大規模な溶媒抽出のためのプロセスを1888年(1884年とも)に創造し、1891年に実際に工業化され、一気に香水産業は発展を遂げていく事になりました。ちなみにそれまで、香水の原材料はアンフルラージュと水蒸気蒸留法に大きく依存していました。

さらにシリス社の主任調香師として20世紀前半に、1900年まで香水の知識が一切なかったフランソワ・コティに調香の手ほどきもしました。

そんな偉大なる父を持つアンリ・ロベールは、1899年9月30日にフランスの香水の都グラースで生まれました。幼き日々から父親の研究所に通い、その仕事ぶりを見ていて調香師になりたいと思っていたアンリは、父が働くシリス社で調香師としてのトレーニングを受けました。

そして1921年7月よりシリス社で本格的に調香師として雇用され、エルネスト・ボーやアンリ・アルメラスと共に働くことになりました。1923年にはドルセーのために「ル ダンディ」を調香し、1926年から1933年にかけてドルセーの専属調香師として活躍しました。

1934年にフランソワ・コティの死後、コティの主任調香師になり1936年に「ミュゲ デ ボワ」を調香しました。アンリにとってはじめて手がけたこのグリーン・フレグランスが、後にシャネルの偉大なる香りを生み出す起点となりました。

そして第二次世界大戦が勃発した時、アメリカに移住し、ニューヨークで1940年から1943年まで引き続きコティの調香師として働きました。

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1954年、シャネルの二代目調香師になる

ガブリエル・シャネル

アンリ・ロベールという人は、調香の処方を考案するだけでなく、香料の原材料の品質管理の専門家でもあった。「N°19」の鍵となるのは、アンリが選んだ極めて特別なグレードのアイリスです。それが今も「N°19」を形作っています。

ジャック・ポルジュ

アンリ・ロベールがシャネルの二代目調香師に就任した時期について、1952年説と1953年説と1954年説があるのですが、正しいのはシャネルが公式に発表しているように1954年です。恐らく、1952年に「N°5 オードゥ トワレット」を調香したからでしょう。

1953年説は、この年ガブリエル・シャネルとピエール&ポール・ヴェルテメール兄弟が和解を果たした年だからでしょう。

元々マドモアゼル・シャネルは、第二次世界大戦が勃発した1939年以降、クチュールのブティックを閉め、香水とアクセサリーの販売だけを、カンボン通り31番地でビジネスパートナーのヴェルテメール兄弟に任せました。しかし1940年6月14日に、ナチスドイツがパリ入城し、ユダヤ人のヴェルテメール兄弟はニューヨークに逃亡せざるを得ませんでした。

一方、マドモアゼルは、ナチスドイツの本部があるオテル・リッツに住み、若いナチス将校と恋愛関係になりました。彼女はこの時期、ヴェルテメール兄弟から会社の経営権を奪い取ることを画策しました。

ところが1944年8月25日に、ナチスドイツからパリが解放され、その2週間後、マドモアゼルは逮捕され、即日釈放後、スイスに亡命しました。紆余曲折の末、ヴェルテメール兄弟と和解したマドモアゼルは、1954年2月5日に、カンボン通り31番地にクチュールのメゾンを15年ぶりに再びオープンしたのでした。

そしてシャネルの香水部門は、ピエール・ヴェルテメールのもと、1954年にアンリが二代目調香師に就任することになりました(エリザベス・アーデンの専属調香師になる予定を高額の給与で引き抜きました)。

かくしてマドモアゼルがメンズ・フレグランスの創造に反対する中、メンズの定番であるフゼアではなく「No.5」の流れを汲むメンズシプレの香り「プール ムッシュウ」を1955年に誕生させたのでした。マドモアゼルが存命中に発売された唯一のメンズ・フレグランスでした(同年、2.55バッグも誕生している)。

1971年に「N°19」、1974年に「クリスタル」を調香しました。そして1978年に三代目をジャック・ポルジュに継承し引退しました。その後、1987年7月7日に死去しました。彼はギ・ロベール(1926-2012)の叔父です。