石川力夫というヤクザの恋の物語
『仁義なき戦い』シリーズ(1973-1974)でもいろんなエピソードを取り上げたけれど、こういう人間だけは出てきたことがない。戸籍から洗い始めて近所の人の話を聞いたりして、いちばん強いモチーフになったのは、泣き出したら二時間でも三時間でも泣き続けるということだった。そんな少年が大人になったらどうなるだろうか、と言うところから、石川力夫の人物像を作り上げていった。
深作欣二
この作品のモデルになった男の名を石川力夫と言う。
「本編の主人公石川力夫は1924年8月6日茨城県水戸市東柵町30番地で出生した」とテロップに出るこの男には、写真が一枚も存在しない。
この男の生涯は、1956年2月2日に服役中の府中刑務所屋上から飛び降り自殺したことにより完結するのだが、その後、墓場(本作の最後に登場する有名な三者合同葬墓碑)に入るまでどのようにして弔われ、その時に、葬儀用の写真が存在したのかさえも定かではない。
つまり一言で言うと、実体がない男なのである。
東映流れ者=渡哲也無双
深作欣二監督・菅原文太主演の『仁義なき戦い』シリーズが、1973年から74年にかけて一つの社会現象になりました。そして、この映画を見て感化された若者たちのヤクザ就職率も跳ね上がりました。
一方、東映仁侠映画のスーパースターだった高倉健は、その時代の流れに乗れず、別の道を模索していました。そんな時代に、同じく俳優として新たなる活躍の場を模索していた30代前半のスターがいました。この男の名を渡哲也(1941-2020)と申します。
日活で活躍していた彼が、日活がロマンポルノ路線に転換した1971年にフリーとなり、石原プロに入社する一方で、実弟・渡瀬恒彦は、東映で『仁義なき戦い』シリーズ等の実録ヤクザ路線で活躍していました。
1973年に、渡は「くちなしの花」を大ヒットさせ(74年の大晦日の紅白歌合戦にも出演)、NHK大河ドラマ『勝海舟』の主演を演じることになりました。
大役を手にし、今後の俳優人生を賭ける意気込みで臨んだ渡でしたが。胸膜炎に倒れ、1974年1月に降板を余儀なくされたのでした(松方弘樹が10話以降の代役を務める)。そして、その後9か月間、国立熱海病院に入院することになりました(11月に退院)。
入院中に、『新仁義なき戦い』シリーズと『脱獄広島殺人囚』(日本版『パピヨン』として)の出演依頼を受けていた渡は退院後、深作欣二監督を指名し、実録ヤクザ映画出演を自分の復帰第一作目に決めまたのでした。
1975年1月1日から『仁義の墓場』の脚本作成が開始され、ほぼ一週間で完成し(人間技ではない超人的スピード)、1月17日から2月10日までの僅か24日間で、休日なしの強行撮影が行われたのでした。ハードスケジュールの中、撮影の日程が進むにつれて、病み上がりの渡哲也の体調は、厳寒と不眠不休に近い状態の中、みるみる悪化の一途を辿っていくのでした。
この作品は、日本映画史上、空前絶後の死神のような男=石川力夫という、スターが真っ先に忌避しそうな企画をあえて選び、前人未到の〝アウトロー像〟を生み出した渡哲也という男の奇跡の物語なのです。
深作欣二版『勝手にしやがれ』!
この世界で、どうにか飯が食えるんじゃないかと初めて思ったのは、『紅の流れ星』(1967)と『無頼より・大幹部』(1968)からです。これまで(俳優を)やってきて一番楽しかった、燃焼できたかな、と自分が感じているのは『仁義の墓場』でしょうか。
渡哲也
全てはこの言葉に凝縮されているのでしょう。不眠不休の24日間で撮影されたこの作品の渡哲也は、間違いなく「真っ白に燃え尽きた」のでした。しかし、映画自体に死神が取り憑いているようなこの作品の中で、完全燃焼したにも関わらず、渡哲也という俳優の恐ろしい所は、その後も、映画・テレビで不死鳥の如く甦り、大活躍したことでした。
深作欣二自身が、「石川力夫の子どものころを覚えている近所の人の話から映画を始めてしまおうというアイデアは、ヤケクソで出ただけでしたけれど(笑)」と回想する程に、無我夢中で作り上げられたこの作品には、他の日本映画には見られない《ゾンビのような》不思議な生命力が宿っています。
そしてどこまでが事実か分からない深作欣二のハッタリズムによる、ヤクザのブランディング力の高さを堪能することが出来ます。
助監督の梶間俊一を呼んで、石川力夫の戸籍を調べてくれと言って、水戸の市役所にいる友達に電話をかけて、戸籍を洗い始めたんです。これがね、あっちこっち転居してるから、わからないんですよ。そして、水戸から東京へ出て工業高校へ行こうとしたんだけれど、やくざのほうに傾斜しちゃって、というような少年期の足取りがつかめてきたんです。
深作欣二
あの人たちの写真は本物じゃないです。声は本物。石川力夫の住んでいた近所へ行って、どんなガキだったか、近所のおかみさんやおじさんの証言をとってこいと行かせたら、隠しマイクでとれたんですよ。「頭がいい子だった」とか「何かあったら二時間でも三時間でも泣いてる」とか。この声だけは本物だから、これを基調に話をつなぐところから始めてみるかということになったわけです。
深作欣二
それは、京琴を上手く使った津島利章によるメインテーマの中からも感じ取ることが出来ます。哀愁を帯びた京琴の旋律と、突き抜けた爽快感に包まれたメインテーマは一度聴くと頭から離れない中毒性があります。その中には誠実という言葉とは無縁な、〝軽率の美学〟という言葉がぴったりな軍艦マーチにも似た生命力が存在するのです。
石川力夫のファション1
革ジャン
- ブラウンの革ジャン、襟と袖はリブに、プリーツあり、スナップボタン
- ティアドロップ・サングラス
- 抹茶色のプルオーバーシャツ、スタンドカラー
- 腹巻
- パイソンベルト
- バーガンディ色のトラウザー
- ライトブラウンのレザーシューズ
日本で革ジャンが一番似合う場所は、戦後の闇市だった。
新宿周辺は、やくざも愚連隊もいて、いろんな形で縄張りはあったけど、大きな勢力はなくて、入り組んでいましたからね。石川力夫がいたのは比較的大きい組だったけど、おとなしい組で、石井力夫のある意味でのせこさはそのことの反映なんです。そういう組だから彼は勝手なことばかりやってるわけで・・・
深作欣二
石川力夫のことをいろいろ調べていくと、暴力人間としての哀れがそくそくと伝わってきて、他のスターさんならどうかわからないけれど、渡哲也というすごくナイーブな柔らかな感性を持っているスターにはいいんじゃないかと思ったわけですね。非常に孤絶した男にある哀しみみたいなものを、渡君のパーソナリティとダブらせてみると、これはいけるぞ、と。
深作欣二
渡哲也という俳優に関して、深作欣二は、「まあ、考えてないことはないと思うけど、来て、のそーっとしてて、「こっからこうやってくれ」と言うと「はい、わかりました」とそのままやるほうですね。あんまり細かいことは考えないんじゃないですかね。」と回想しています。
しかし、「『仁義の墓場』のときなんかは、存在感の迫力というのかな、寝そべってても良かったですよね。」とも回想しているのである。つまりはもうどんなことをしていようとも、この時期の渡哲也には、究極形態のヤクザ・オーラと、ファッション性を突き抜けた男としての存在感が備わっていたのでした。
成田三樹夫様のロングコート姿
1970年代の深作欣二の映画には、美しい男たちが沢山存在しました。その筆頭が、成田三樹夫様(1935-1990)でした。
どこまでもキザな役柄を、実にさらりと演じあげています。昔の東映ヤクザ映画のスター達は、ヤクザが憧れるヤクザを演じるスターでした。それは、Vシネマ以後のヤクザ映画俳優たちが、ヤクザを演じているヤクザにしか見えないこととの明確なる違いです。
石川力夫のファッション2
ド派手なスーツ
- オックスフォードチェック・スーツ、ピークドラペル
- パイソンベルト
- ロンドンストライプシャツ
- イエロー×ネイビー×レッドの派手なネクタイ
- ティアドロップ・サングラス
- 黒のレザーシューズ
渡哲也のロンドンストライプ・シャツ
いちばん問題なのは石川力夫というやくざは何だったのかということで、親分を傷つけて関東を所払いになり、面倒を見てくれた兄弟分の賭場へたかりにいって、そのあげくに関係が拙くなった兄貴分をぶっ殺してしまった。・・・まあ、ハチャメチャで救いようのない話だけれども、いっさい説明抜きでやったほうが面白いんじゃないか、と。勝算はまったくなかったですがね(笑)
深作欣二
まさに狂犬という名こそ相応しい石川力夫を通じて、名セリフが連発されます。この時代のヤクザ映画はちょっとしたセリフでも言い回しが実に面白いのです。
「あのやろ~らまだちょろついてるんかっ?」(石川力夫)
「バカ!お前のは掃除じゃないんだよ!はたきかけて障子を破いてるようなものなんだよ!」(河田組長が石川に対して)
「衣紋掛け突っ張ったような口利きやがってよォ~」(石川力夫)
作品データ
作品名:仁義の墓場 (1975)
監督:深作欣二
衣装:長谷稔
出演者:渡哲也/梅宮辰夫/多岐川裕美/田中邦衛/芹明香