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ジャン=クロード・エレナ 香水を芸術に変えた調香師

調香界のスーパースター達
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ジャン=クロード・エレナ

Jean-Claude Ellena 1947年4月7日、フランス・グラース生まれ。1968年にジボダン社の調香師としてトレーニングを受け、1976年に28歳にして、ハイジュエリーブランド史上初のフレグランスをヴァンクリーフ&アーペルのために調香しました。この「ファースト」と名付けられた香りと共に彼のキャリアがはじまりました。

1992年にブルガリのはじめてのフレグランス「オ パフメ オーテヴェール」を調香し、世界初のティー・フレグランスを生み出しました。そして、1998年にカルティエの「デクラレーション」を調香したことが、彼の人生の最大の転機になったのでした。かくして2004年に、エルメスの初代専属調香師となり、「地中海の庭」「テール ドゥ エルメス」をはじめとする〝エルメスの香りのものがたり〟を紡いでいく事になるのでした(2016年まで)。

私の作品の特徴であるシンプルさは、私が生きていた時代、たとえばヌーヴォー・ロマン運動の影響も強く、モラルの解放、香水の民主化…エドモン・ルドニツカとの出会い、そして日本のピュアでエレガントな美学との出会いが、このシンプルさの追求に貢献したのです。

ジャン=クロード・エレナ(日本向けではないインタビューにて)

ラヴェルやドビュッシーを聴くと、控えめな喜び、官能性、官能性を排除しない知的主義、単純なメロディーの中にある感覚的な喜びが感じられます。

私はミニマリズムを自認しているわけではありません。シンプルであることはミニマリズムではありませんし、私の香水がミニマルであるとは思っていません。ひとつの音をひとつひとつ丁寧に演奏するように、私の香水は一度に多くのことを語ろうとはしません。

ジャン=クロード・エレナ

代表作

イン ラブ アゲイン(イヴ・サンローラン)
オスマンサス ユンナン(エルメス)
オスマンチュス(ザ・ディファレント・カンパニー)
オ パフメ オーテヴェール(ブルガリ)
地中海の庭(エルメス)
テール ドゥ エルメス(エルメス)
デクラレーション(カルティエ)
ナイルの庭(エルメス)
ファースト(ヴァンクリーフ&アーペル)
ローズ イケバナ(エルメス)
ロー ディヴェール(フレデリック・マル)

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香水を哲学するヒト。

「彼の香りには、モーツァルトの伴奏がついている」©Hermès

「柔らかい愛撫のようなものでなければならない。何もショックを与えてはならないし、何も叫んではならない」©Hermès

かねてより、調香師は作曲家にたとえられてきた。しかし、私はつねづね自分は香りの文筆家だと思っている。

ジャン=クロード・エレナ

21世紀にフレグランスを芸術に変えた男がいた。「私は俳句のように、香りを作りたい」と語り、究極の〝香りのイリュージョニスト=アーティスト〟を標榜するその人の名をジャン=クロード・エレナと申します(エレナ自身「ミニマリストではない」と否定しているのでこの言葉は使わないようにします)。

彼のほとんどのフレグランスは、香りの原料を15~40種類のみ使用して作られています(通常フレグランスはその10倍~30倍以上の原料が使用されている)。少ない香料で調香してしまうとどうしても香りがコンセプチュアルになってしまうのですが、エレナの恐ろしいところは、官能性が損なわれない絶妙なバランスを見つけ出せるところにあるのです。

ラグジュアリー・ジュエリーブランドのために最初のフレグランス(ヴァンクリーフ&アーペルの)「ファースト」を調香し、更に、ブルガリの最初のフレグランス「オ パフメ オーテヴェール」を調香した彼は、2004年にラグジュアリー・ブランドの頂点に君臨するエルメスにおいて、史上最初の専属調香師という地位に就任することになります。

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今の時代にも通じるエレナの問題提議。

「私にとってのエレガンスとは、隣人のスペースを侵すことのない慎み深さです」1990年代のエレナ。

新しい創造とはいえない香水がつぎつぎと洪水のように現われ、似たような広告(しかもしばしば同じひとりのモデルが複数のブランドの顔になっている)が、うんざりするほど繰り返される。顧客は消費者として扱われるだけである。こうした状況では顧客は、香水に夢、アイデンティティー、快楽を見つけることができず、ほかの製品、ほかの夢の領域へと向かってしまう。

ジャン=クロード・エレナ

ジャン=クロード・エレナという調香師の存在は、私たちが見落としやすい香水に対する芸術的な側面(心が豊かになる側面)について教えてくれます。それは「恋する女性の香り」「みんなに褒められる香り」という価値観で香水を見ることの陳腐さについて気づかせてくれるのです。

真に創造と呼べる香水だけが、(顧客に)動揺を引き起こし、予期せぬものを与えることができる。そして、顧客が疑問をいだき、習慣を捨てるきっかけとなる。創造的な香水は、顧客の知覚能力を広げるのだ。ブランドへの愛着も、こうして生まれるのだろう。

ジャン=クロード・エレナ

上質な靴を履いていると、より高いステージへその人を引き上げてくれるように、心が豊かになる香りに包まれると、悲しみも喜びも全てひっくるめて豊かな人生へと導いてくれるのです。

果たして、どうして、本当に、恋の真っ只中で、喜びを感じている女性が、改めて「恋する女性の香り」を身に付ける必要があるのでしょうか?甘ったるい香りをプンプンとさせて、幸せオーラを拡散し、ひけらかす必要があるのでしょうか?

それは、どこかSNSで、充実した日常を見せびらかしたいと考える感覚に似たものがあるのではないでしょうか。人間には慎みが大切なのです。

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ジャン=クロード・エレナの香水哲学。

好きな食べ物は何ですか?「トリュフです!」

「人生においての最高の贅沢は、喜びを分かち合うことです。香水にはそれが出来ます。」

香水は鏡のようなものです。あなたは自分のイメージを香水ボトルの中に見ているのです。

ジャン=クロード・エレナ

私が生み出す香水とは、匂いの再現ではなく、記憶に固定された匂いのイメージなのです。これはヘッドスペース分析(香気成分の分析)の逆の作業であり、時間によって消していくものを捉えていくことなのです。

『調香師日記』ジャン=クロード・エレナ

考えてみよう。通りや映画館、劇場の客室で、どれだけの数の香水が隣り合うことになるか、気付いているだろうか、「レール・デュ・タン」「ファースト」「N°5」「オー ソバージュ」「シャリマー」「オピウム」「テール ドゥ エルメス」「エンジェル」「オー デ メルヴェイユ」の香りを感じると、1947年、1976年、1921年、1966年、1925年、1977年、2006年、1992年、2004年の時間のなかを散歩するような気分になる。香水にはモード(流行)以上のなにかがある。広告にはできない、なにか。香水は時間を横断する。そして身につけられるものである。芸術作品でなければ「時間の外に」生きるものは多くはない。

ジャン=クロード・エレナ

香水づくりを通して、私は日々美を追及している。しかし、いまだ美がどこにあるかを知らない。知っているのは、人々をうっとりと魅惑し、心をそそり影響を与える、つまり誘惑するためには、知識を使いこなして演出し、欲望をそそる香水をつくらねばならないということだ。欲望をそそるとは、古典的な哲学者にとっては芸術の限界を表す言葉だ。香水は蒸発して、消えてしまうからこそ、誰も所有できず、欲望が欲望のまま残るのである。人々の記憶や、嗅覚の共通の思い出のおかげで、香水を魅惑的なものにすることができる。

ジャン=クロード・エレナ

創作のためにときには耳をふさぎ周囲の音を聞かないようにすることも必要である。もう香料を重ねたりしない。香料は並べる。混ぜることもない。結びつける。私の香水は、完成はしていても完結はしていない。わたしは香水の中にあえて空白の部分、【余地】を残して、そこに使い手が自由に想像を描き加えるようにしておく。つまり、それは【使い手専用のスペース】なのである。

ジャン=クロード・エレナ

画家のポール・セザンヌは、カミーユ・ピサロに「いまに、りんご一つでパリ中を驚かせてみせる」とよく言っていたそうです。私にも同じ野心があります。日常的な匂いで驚かせ、悩ませたいのです。

『調香師日記』ジャン=クロード・エレナ

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香水の聖地グラースで生まれる。

1957年、パリのトロカデロで父親と一緒に。©DR

(調香師である父親ではなく、エドモン・ルドニツカから受けた影響のほうがおおきいのはどうしてですか?)それは、父は自分の仕事についてほとんど話しませんでしたし、母も興味がありませんでした。もちろん、母が興味を持っていたのは、父が香水で稼いだお金です。でも、父は読んでいる本や食べているものなど、何でもかんでも嗅いでいたのです。母はそれを見苦しく思っていたようです。私が調香師になったのは、父をそれほどまでに魅了したものが何であったかを知るためかもしれません。

ジャン=クロード・エレナ

アントワン・シリスで働いていた頃。毎週末、原付に乗って海岸に出ていました。©DR

私にとって最も羨ましいもの。それは香りを作るために、分析的な鼻に訓練したことで失われたひとつの感覚です。まだ香水が好きになったばかりの人で、あらゆる香りがはじめて嗅いだような感動を持てる、そんな純粋な香りに対する愛。これこそ、私が再発見したい愛の言葉なのです。

ジャン=クロード・エレナ

ポール・セザンヌを愛し、俳句、禅、仏教から浮世絵に至るまで日本文化を崇拝し、溺愛しているジャン=クロード・エレナは、1947年4月7日にフランス・グラースで生まれました。父ピエールは、ポラック&シュヴァルツ(1958年にIFFとなる)の調香師でした。

のちにエレナ自身が回想している最初の嗅覚の記憶は、4歳の時に、お菓子を探していて、食器棚の一番上に隠してあったクッキーボックスを見つけた時の匂いでした。そのボックスを開けるとバニラの匂いがして、しかし、カビが生えて腐っていました。

若き日より、グラースの野山を駆け巡り、(イタリア・ピエモンテからの移民である)祖母ルーシーと共に、夜明けにジャスミンを摘んで、香料メーカーに売っていました。

7歳のときに、両親の仕事の都合でアムステルダムに移り住み、運河沿いの快適な家に住みました。しばらくして父親がジボダンに転職したのでパリに住むようになったのですが、「私は、はっきり言って成績が良くなく、母親から諦められていました」と言うほどの劣等生でした。

そんなエレナの人生を決めたのは19歳の時、父親から渡された小冊子でした。

そんなとき、黒地に白い花束の挿絵の入った小冊子に出会い、読んで衝撃を受けた。ドラゴコ社の雑誌『ドラゴコ・レポート』、エドモン・ルドニツカの総特集号である。・・・1962年の昔のものではあったが、書かれた内容は新しかった。美、趣味、簡素さについて、匂いを嗅いで判断する方法について、そして専門知識と人生哲学について語る内容だった。こうしてルドニツカが私の人生に入り込んだ。

私はルドニツカのつくった香水を模倣した。クロマトグラフィー分析によって、ほとんどの構成要素がわかった。しかし多くの解釈が可能だった。ルドニツカの書いたものや、つくりだした匂いに惹かれ、さらに知りたいという思いが募った。よりいっそう匂いを感じて自分のものとするために、ルドニツカの香水を裸にするまでに分析した。

そこには、構成と厳格な作業があり、ひとつの効果のためのひとつの匂いがあった。気どりや余計なものが削ぎ落された構成が、率直に表現されていた。香水が呼吸していた。こうしてルドニツカのアプローチを研究して、私は自分の処方の方法を考え直した。香水の処方とは、匂いを重ねることではない。かたちを与えること、すなわち、匂いのあいだの関係をつくりながら、組み立てて構成していくことなのだ。

ジャン=クロード・エレナ

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世界ではじめてのお茶の香りを作る。

18歳で、スザンナ・キューザックと結婚しました。©DR

勉強が出来ないなら働けと言うことで、父親の紹介によって、1963年2月4日、16歳の冬、精油メーカーのアントワン・シリスの工場(400人規模)で夜勤勤務するようになりました。そして、祖母ルーシーの家に居候することになりました(エレナはおばあちゃん子です)。

まず最初に蒸留器の清掃員からはじまり、3年の間に、見習いとして勤務することになります。やがて、兵役を経験し、18歳の時に地元のカフェにいたアイルランド人のスザンナに一目惚れし結婚しました(娘のセリーヌ曰く、この二人はどこに行くのも必ず一緒らしい。エレナの回想が素敵です。「白いショートパンツ姿の彼女の長い脚に夢中になったあの瞬間は今でも忘れない…」)。

そして、1968年にジボダンがジュネーブに新設した調香師養成学校に入学しました。しかし、3年間のコースを終えることなく、9ヵ月後には、「こんな授業は役に立たない」と直訴し、ジボダン社の調香師として雇用されながら、トレーニングを受けることになりました。その間、シャンプーや石鹸の香りを作らされたのでした。

この頃、父親と親交があったルドニツカと、実際に会うことが出来ました。「はじめて彼の自宅を訪れた時、「キミは臭い。洗剤のような香りがする。明日出直してきなさい」と言われました。」

エレナは、ルドニツカと交流するようになってから、調香師としての在り方を深く考えるようになりました。そして、彼自身、決してフレグランスを身につけないようになったのでした。

匂いのないものはない。調香師としての修行時代に私は、ひとつのジャスミンのコンクレートがエジプト産か、イタリア産か、それともグラース産かを嗅覚で区別することを学んだ。それだけではなく、そのコンクレートのアブソリュがどんな蒸発器のなかで得られたのか、銅製、錫製、あるいはステンレス製の蒸発器なのか、あるいは蒸発器ではなくてガラス製のフラスコのなかで得られたのかを知る方法も学んだ。・・・ときと共に私は、銅のなかで得られたふっくらとした匂い、錫がつくるエレガントな匂い、ステンレスのつくる金属的な匂い、そしてガラスのつくるくすんだ匂いなどを知った。このように、少し訓練を積んだ鼻があれば、匂いを嗅ぎ分けるのは難しくない。

ジャン=クロード・エレナ

1973年に、エレナはジボダンのニューヨーク支社に移ります。そして、1976年に、ラグジュアリー・ジュエリーブランド史上初のフレグランスをヴァンクリーフ&アーペルのために調香しました。このファーストと名付けられた香りと共に彼のキャリアがはじまることになります。

しかし、1970年代から80年代にかけて、市場調査を重視した商業主義にどっぷりつかったフレグランス業界で、その姿勢に反対を唱えていたエレナは非常に浮いた存在になってゆきます。

1976年に、ルシアン・フェレーロとJean-Claude Gigodotと共にジボダンを離れ、グラースの潰れかけの香料会社ローティエで働いたが1986年に首になり、同年チーフ・パフューマーとしてジボダンに戻るのでした。

エレナにとって、転機となったのは、1993年にブルガリが初めて発売することになるフレグランスオ パフメ オーテヴェールを調香したことでした。

彼は世界初のティー・フレグランスを生み出したのでした。しかし、3年間ニューヨークでハーマン・アンド・ライマーのチーフ・パフューマーを勤め、かなり不遇な時期を過ごした後、1998年にカルティエのデクラレーションを調香したことが、彼の人生を逆転させることになったのでした。ちょうどこの頃、エレナは、日本をはじめて旅行し、ロラン・バルトの著作を貪るように読み、彼が最も愛する作家となるジャン・ジオノに到達するのでした。

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エルメスの初代専属調香師になる。

「私が最も惹きつけられて止まないのは、昔のゲランの香りなのです。それは私の作る香りとは正反対だからなのです。」©Hermès

エルメスがエレナのために建てた邸宅「香りの修道院」。それはグラースの外れの村カブリにあり、地中海が一望できます。©Hermès

2016年に、エレナからその地位を引き継いだクリスティーヌ・ナジェルと共に。©Hermès

残念ながら、私は退屈するという能力を失った。書き、読み、庭の手入れをし、ペンキを塗り、料理をつくる、掃除機をかける。私の場合、これらの周辺的な活動も(掃除機をかけること以外)程度の差こそあれ、香水に結びついている。だが私は無為の時間を称賛している。ゆっくり時間をかけることは、時間を無駄にすることとは違う。ほとんどの香水のアイデアやきっかけは、自由に使える時間に、出会い、読み、散歩し、ぶらぶらするなかからやってきた。瞬間をつかみ、紙のうえに、いくつかのことばや原材料名、ひとつのアイデアの始まりを書き込む。創造の時間は、数日のこともあれば数か月にわたることもある。数日でできあがってしまう調香は、まるでそのかたちが存在していたかのように、私の記憶に対して自分の存在を主張する。

ジャン=クロード・エレナ

世紀末を迎え一人の男が香水業界の救世主伝説を生み出そうとしていました。調香師という存在に光を当てた男、フレデリック・マルの登場です。そして、彼のアイデアを聞き、エレナはいの一番に理解を示しました。

このマルとの出会いが、エレナに与えた影響は絶大でした。それが従兄弟のティエリー・ドゥ・バシュマコフと共に、ハイ・コンテンポラリー・パフューマリー『ザ・ディファレント・カンパニー』を2000年に創立する原動力になりました。

エルメスの5代目社長ジャン=ルイ・デュマは、シャネルのように香水で成功するためには、ジャック・ポルジュのような専属調香師が必要だと常々考えていました。そのためにカルティエから香水部門の責任者としてヴェロニク・ゴティエを引き抜きました。

彼女は、「デクラレーション」で仕事をしたことのあるエレナを専属調香師として推薦しました(エレナが最初にエルメスの香りを調香したのは1993に発売された「アマゾン ライト」でした)。そして、そのテストも兼ねて、2003年に地中海の庭が作られたのでした。

エレナが望むままに作らせたこの香りは大ヒットしました。そして、2004年に正式にエルメスの初代専属調香師に就任したのでした(当初3年契約でした)。

常に私のラボに置いている香りがいくつかあります。ディオリシモルール ブルーN°5ミツコボワ デ ジルなど数少ないです。匂いというよりも、同じクオリティの香水を作ることに興味があるからです。

ジャン=クロード・エレナ

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エルメスの大躍進!そして、娘セリーヌ

1973年、ジュネーブのモン・ルポ公園で、セリーヌとエルベ(現在は建築家)と。©DR

娘のセリーヌ・エレナ。ジャン=クロードの弟も調香師です。

「私が感動した香水は、セルジュ・ルタンスの『フェミニテ デュ ボワ』と、ティエリ・ミュグレーの『エンジェル』です」

自然をその複雑さのままに複製することに、興味はない。自然をつかみ、自分の都合に従って変え、いくつかの特徴で意味を伝える、そして、それを最小限の匂いの原料を並べて行なう。この作業が私の心を魅了してやまない。

錯覚は現実よりもより真実だ。真実らしさは真実よりも、信じられる。錯覚は、嘘ではない。欲望に応えるためのひとつの方法だ。

ジャン=クロード・エレナ

エルメスの専属調香師として、「庭園のフレグランス」「コロン エルメス」「エルメッセンス」といった人気コレクションを定着させ、2006年には、テール ドゥ エルメスが、エルメスの史上最高の売り上げを記録しました。

そして、2004年のエルメスの香水売り上げが6500万ユーロだったのが、2009年には、1億3800万ユーロと約2倍となりました。

私はいつも小さなノートを持ち歩いています。料理やワインの味、切りたての木の幹の匂いなど、興味のある匂いはもちろん、本の数行を書き留めることもあります。

そして、一日に5~10ノートの構成の配合以上のことはしないようにしています。すぐにその香りがどうかを決め付けずに、10日から15日様子を見て、私に語りかけるものがあれば、続きに取り掛かります。この距離感が大切だと思います。

エルメスでは年に3本しか香水を発売しないので、このような自由があるのです。

ジャン=クロード・エレナ

私が崇拝している香り。それはスリー・ゲラン「アプレロンデ」「ミツコ」「シャリマー」です。そして、エドモン・ルドニツカのすべての作品。特に「ディオレラ」と「ディオリシモ」。クリニークの「アロマティック エリクシール」。そして、クリスティーヌ・ナジェルの作品「ナルシソ ロドリゲス フォーハー」「オー ドゥ カルティエ」。

ジャン=クロード・エレナ(ナジェルがエルメスの調香師になる2年前の2012年のインタビュー)

2011年には芸術文化勲章「シュヴァリエ」を受勲しました。2014年には、エルメスの2代目専属調香師にクリスティーヌ・ナジェルが就任し、2016年までの2年間を、W調香師システムを取りながら、引継ぎを済ませ、エレナは調香師を引退しようと考えていました。最終的にエルメスで35の香りを創造しました。

しかし、エルメスを退社した翌日にフレデリック・マルより連絡があり2019年に「ローズ & キュイール」を作ることになり引退できなくなってしまいました。そして、同年、ル クヴォン メゾン ド パルファムのオルファクティブ・ディレクターに就任し、今に至るのです。

ジャン=クロード・エレナには二人の子供がいます。そして、長女のセリーヌ・エレナは、彼のDNAを継承し、素晴らしいフレグランスを創造しています(ちなみにエレナの弟ベルナールもシムライズの調香師です)。

はたから見たら、私たちの職業は夢のようなものです。でも中身は全くそうではありません。私たちは常に自分の感性(能力)を疑いながら仕事をし、大きな心理的プレッシャーにさらされているのです。勝つことより負けることの方が多い仕事です。

私がディオールで「オーテヴェール」の元になった香りを「こんな香りは絶対に売れない!」と宣言された時も丁度そうです。結果的にブルガリで発売され復讐を果たしたが、それは極めて稀なことなのです。

ジャン=クロード・エレナ

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ジャン=クロード・エレナの出版した本

うまくだますには多くの誠実さが必要なのだ!

『パン屋の妻』ジャン・ジオノ

香水は贅沢品というか、贅沢品の中で一番欠かせないものです。香水は、最も恐ろしい謎に直面し、しばしばそれを克服することを可能にする。

『幸福の追求』ジャン・ジオノ

ジャン・ジオノを崇拝しているエレナの哲学は〝人生に無駄なものほど重要なものはない〟ということです。そんな彼は、調香師として最も多くの出版物を生み出しています。元々彼は、香りを嗅ぎながらではなく、頭の中で香水のフォーミュラを組み立てて作り出していたので、〝香水により多くの何かを語らせるためには、言葉が必要だ〟と考えたのでした。

つまり、言葉の代わりに香りを生み出すのではなく、言葉と一緒に〝香りのものがたり〟を生み出しているのです。さらに師匠であり大親友だったエドモン・ルドニツカの著書に完全に共感したわけではないので、まったく別の本を書くことになったのでした。

ちなみにエレナは30歳のときから作った香水の日記を付けていました。

2007年に発表した『Le Parfum(香水)』は、世界で3万部以上売れています。

2009年に『Perfume: The Alchemy of Scent』

2011年に『Journal d’un parfumeur(調香師日記)』

2017年に『L’Ecrivain d’odeurs (The Writer of Smells) 』

2019年には『La Fabuleuse Histoire de l’eau de Cologne』、2020年には『Atlas of Perfumed Botany』を出版しました。以下、ほぼ毎年コンスタントに新刊を発表しています。