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『マイ・フェア・レディ』3|オードリー・ヘプバーンとジュリー・アンドリュース

オードリー・ヘプバーン
オードリー・ヘプバーン
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ジュリー・アンドリュースの「マイ・フェア・レディ」

舞台劇のヒギンズ教授役も同じくレックス・ハリソンだった。

そして、衣装・美術を担当したのも同じくセシル・ビートンでした。

花売り娘のコスチュームを着るジュリー・アンドリュース。

原作はジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』。

1956年3月15日から62年9月26日まで、ブロードウェイで公演され、2717回のロングラン公演となった。

アスコット競馬場のドレスは、舞台ではピンクでした。

オードリーのピンクシフォンドレスに似たデザイン。

1940年代のディオールのモデルのようなハットデザイン。

そして、大使館のイブニング・ドレス。

日本では1963年9月、東宝宝塚劇場で、イライザ役を江利チエミ、ヒギンズ役を高島忠夫で初演された。

そして、有名なラストのスリッパーシーン。

元々舞台劇において、イライザ役を熱演したジュリー・アンドリュース(オリジナル・アルバムは3200万枚売れていた)を映画版でも主役にするかどうか決めあぐねていたプロデューサーのジャック・ワーナーは、映画出演の経験がない彼女の可能性を見極めるために、スクリーン・テストを依頼しました。しかし、ジュリーは、『メリー・ポピンズ』(1964)の出演が決まっていたこともあり、テストを断わりました。

その時、ワーナーの心は固まったのです。テレビに押され、斜陽化しつつある映画産業に対して人生最後の大勝負に出ることにしたのでした。オードリー・ヘプバーンをイライザに起用しようと。そして、ヒギンズ教授役に、『シャレード』(1963)でオードリーと抜群の相性を見せたケーリー・グラント、イライザの父親役にはジェームズ・キャグニーの起用を考えたのでした。

オードリーは100万ドルのギャランティで出演を承諾したのでしたが、ケーリー・グラントは「レックス・ハリソン以外にこの役を出来るものはいない」と断りました。一方、キャグニーは、その自伝によると、「ここ何年かの間に、わたしを引退生活から再びひっぱりだそうとして、何度か、興味をいだかせるような話がもちこまれてきた。たった一度だけ、心を動かされかけたことがあった。『マイ・フェア・レディ』である」と書かれています。そして、監督のジョージ・キューカーは、キャサリン・ヘプバーンに電話をしてキャグニーの連絡先を知り、交渉が開始されました。

「すばらしいナンバーがいくつもある偉大なショーの、これまでにあったかないかというくらいの大役だ。」とキャグニーは感じ、「瞬間的に、これだけはやってみようか、と思ったことを白状しておかなくてはならない。たぶん、わたしはこれを生涯最後の役としたかったのである」とまで自伝に記されていました。しかし、キャグニーは最終的に断りました。

ケーリー・グラントのヒギンズ教授は、見てみたいという気が湧きませんが、キャグニーの父親役が、もし実現していたならば、本当に素晴らしいパフォーマンスを見せてくれていたことでしょう。『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』を見ればそのことは想像に難くありません。